河北新報特集紙面2013

2014年4月16日 河北新報掲載 「こども未来応援教室」石井光太氏 講演「被災地で見た人間らしさと光」

今できることプロジェクト「こども未来応援教室」石井光太氏 講演「被災地で見た人間らしさと光」

震災直後の遺体安置所で、一人の老人が毎日遺体に話しかけ、さすってあげたりしていた。その行為に遺族が慰められ、悲しみに耐える力を得たことなどの体験を通して、石井さんは、尊厳と人間らしさがあれば、何かしら光があれば人は救われる。そんな光(小さな神様)を見出して命をつないでいこうと話し、参加者は深く聞き入っていました。「今できることプロジェクト」としても、それぞれがそれぞれの思いを持って一歩を踏み出すきっかけとなる力強いメッセージをいただいたのではと思います。

プログラム
《講演》
《フリーアナウンサー高山香織さんとのトークセッション》
《参加者との質疑応答》

《講演》

今日お話させていただくのは、私がこちらの石巻の被災地も含めて震災直後から宮城県・福島県・岩手県を2ヵ月くらい取材してきて、それから断続的に今まで行っている取材を通して私が見てきたこと、感じたこと、そして今何がいちばん大切になるのかについてお話をさせていただきたいと思っています。

忘れ去られていた、遺族の気持ち

私がそもそもこちらに震災の取材に来ることになったきっかけからお話をさせていただきます。3月11日は東京で仕事をしていました。私はルポルタージュ作家ですので、何かが起きた時にすぐに現場に向かって、そこで見聞きしたことを書く仕事をしております。今回の震災に関してもすぐに行かなければならないという思いがありました。それより数年前に起きたインドネシアのスマトラで起きた津波の取材もしたことがあって、日本がどういう状況になってしまうのかということがだいたいわかっていたので、つながりのある出版社にすべて連絡をして、「すぐに行かせてくれ」と言いました。そうしたら真っ先に連絡が来た出版社が小学館で、「すぐに行ってくれ」ということで行くことになりました。
最初は新幹線が通っていませんので、まず新潟に行って、新潟から山形を越えて仙台に入って、仙台を拠点にして宮城県・福島県・岩手県に足を運んでいました。その中で、直後に「遺体」という本を書かせていただくことになります。遺体というのは読んで字のごとく亡くなった方のことです。なぜその題材を私が取り上げたかと申しますと、取材をしている中で、今さらここで語る必要もないと思いますが、いろいろな悲しい現場を目にしてきました。その中でいちばん感じたことは、いちばんの犠牲者は亡くなった方と残された方なんです。この方々が辛い記憶や体験を背負って生きるということが、本当の意味での復興だと思いました。にもかかわらず、最初の段階で、亡くなった方やご遺族の方の気持ちが忘れ去られた状態の中で、義援金がどうのこうのとか、寄附がどうのこうのという美談だけが上滑りしているとすごく思いました。
その中で私としては、3月11日から1週間2週間の期間の中で、そこに生きていた方々が起きたことを背負って、どうやってこの先を生きていくのか、そのことをしっかりと目にとめなければならないだろうと思いました。それをしっかり目にとめた上で、初めて3月11日に何が起きて、これから日本はどう変わっていかなければならないのかを考えるきっかけになると思いました。

遺体安置所で出会った人

そしていちばんの犠牲者である亡くなった方、取り残されたご遺族の方々が向かう先に私は行きました。そこが遺体安置所だったんです。私は遺体安置所を福島・宮城・岩手で全部で20数カ所回りました。「遺体」という本に関しては、特に岩手県の釜石市で廃校になった中学校の体育館が遺体安置所になっているところがあって、約1ヵ月間くらいその中で一緒に働きながら、中で何が起きていたのかということを書きました。もちろん遺体安置所で起きていたことというのは、今思い出しても涙が出てくるくらい辛い状況でした。はじめのうちは毎日ご遺族の方々がそこに身内がいないことを願ってやって来ていました。あるいは遺体安置所を避けて避難所を探している状況だったり、それでも時間が経ってようやく遺体安置所に来て亡くなったご家族を見つけて泣き崩れる姿とかをずいぶん見させていただきました。細かい話はここであえてお話しすることでもないと思います。ただ、私がそういう悲しみの中でいちばん感じたのは、人間というのは絶望の中だけでは生きていけないということだったんです。どういうことかといいますと、ご来場の皆さんの中にも遺体安置所に実際に足を運ばれた方も少なからずいらっしゃると思います。私が行ったところは、どこも寒くて臭いがして立っているだけで胸が裂かれるような場所でした。岩手県の釜石市の僕が働いていた遺体安置所に関してもまったく同じ状況でした。ただ、その時に僕がひとつ思ったのが、この中で何を自分が書いていけばいいのかわからなかった。こんなに絶望しかない状況の中で、僕が何かをルポすることはできないと思っていました。 そんな時にある一人の老人に出会いました。老人といっても当時70才の方で、彼は岩手県釜石市の民生委員をやっていた千葉さんという方でした。この方が地震が起きた時に、自分に何かできることがないかと考えて、自ら遺体安置所に足を運びました。その時に彼が見ていちばん感じたのは、遺体安置所で働いている方というのは、市の職員だったり、地方から来た警官だったり、今までにほとんどご遺体に触れたことがない方々で、そのご遺体をどうやって扱っていいかわからなかったり、ご遺族にご遺体の引渡しをしたことがなかった方々だったんです。そういう方々が実際にあの状況に入った時に、自分たちがどうしていいかわからない状況だったんです。
千葉さんはそれを見て自分が何とかしなければいけない、自分が亡くなった方とご遺族をしっかりとつないでいかないとならないと思って、彼はその足で市長さんのところに行って、「私は昔、葬儀屋で働いていたことがあるので少しは事情がわかっています。だから遺体安置所の管理人にしてください」と頼みました。それで市長が「頼みます」ということで、彼は2ヵ月間にわたって岩手県釜石市にある約4つの遺体安置所の管理を一手に引き受けることになります。
僕が働いていた時に彼もいました。ひとつ僕が気づいたことは、彼が遺体に対してずっと話しかけていたり、身体をさすっていたりしているんです。当時まだお棺もなくて、遺体はシーツに包まれて運ばれてきたり、あるいは納体袋というビニールの袋に入れられてそのまま置かれていたり、小さな体育館に足の踏み場もないくらい遺体が置かれていて、その中のほとんどが名前もわからず、番号しか書いてなかった状況でした。にもかかわらず千葉さんは、毎朝5時半に一人でやってきてずっと遺体に声をかけるんです。どう声をかけるかというと、一体一体にしゃがみこんで「昨日の晩は寒かっただろう、本当に冷たい思いをさせてごめんなさい、でも今日こそお父さんとお母さんが必ず迎えに来て、あなたの身元を確認してあげますからね」と言ってあげたり、「2週間も3週間も長いこと体育館に置いてしまってごめんね、でも必ず今日か明日には火葬をして天国に行けるようにして、お骨にしてお家に帰らせてあげるから、あと1日か2日の辛抱だから頑張ってね」と言ってあげるんです。
僕は初めてその光景を見た時に、千葉さんがなぜご遺体に対して声をかけるのかわからなかったんです。ある日、千葉さんに「ちょっと時間をください。なぜご遺体に対して声をかけているんですか」と聞きました。確か雪の降っている寒い日でしたので、外で話を聞くことができなかったので、車の中で彼は運転席に座って、僕は助手席に座って話を聞きました。僕が先ほどの質問をしたところ、千葉さんは突然涙をボロボロ流して「遺体というのは死体じゃないんです、人間なんです。必ずどんな状況であっても人間としての尊厳を守ってあげないといけないんです。それが取り残された人間にとって唯一できることなんです。もしも自分たちが人間として尊厳を守ってあげて送り出すことができれば、ご遺族はどれだけ救われるかわからない。それだけ非常に大切なことなんです。でも、もしお葬式もできない、お墓に埋めることもできない、身体を洗うこともできない、名前もわからない、そういう状況の中で機械的に作業をして土葬にして身元不明にしてしまったら、遺族はたぶんこの先、この町で生きていく気力がなくなってしまって、この町から出て行ってしまうかもしれない。だから残された自分ができることはほとんどないけれど、せめてご遺体の尊厳を守ってあげなければいけないんです」と、彼は涙を流してずっと僕にそう訴えてきました。

遺族の気持ちを救った、ひと言

それから僕は千葉さんと一緒にご遺体の仕事をやることになります。僕が冷たくて暗いところで感じたのは、人間が発する言葉の温かさでした。例えばその時、34才と35才の若いご夫婦がいました。そのご夫婦が生後54日の赤ちゃんを津波で流されて亡くしていました。旦那さんは学校の先生で、奥さんは産まれたばかりの赤ちゃんを抱いて家にいて、運よく奥さんは助かったんですが、抱いていた赤ちゃんは津波に流されてしまって亡くなってしまいました。旦那さんが学校から帰ってきて、自分で赤ちゃんの遺体を見つけて遺体安置所に運んで、火葬までの1週間ずっとそこで安置されることになりました。ご夫婦としては、特に奥様としては自分が救ってあげられなかったという思いがあるんです。それでご夫婦は毎日遺体安置所に来て、ひざまずいて、まだお棺もありませんでしたので毛布に包まれたご遺体の前にしがみついて、「救ってあげられなくてごめんね、これだったら何のために生まれてきたのかわからないね」と言って毎日泣いているんです。
3時間も4時間もいるから背中を押してあげて「風邪をひきますから、今日はお帰りになったらどうですか」と声をかけると「わかりました」と言って彼女は帰るのですが、また5分10分すると戻って来て同じ場所で泣いて同じことを言っているんですね。その時に千葉さんがご夫婦のもとにそっと歩み寄って、ご夫婦にというよりもむしろ赤ちゃんのご遺体に向かって「坊やはね、お母さんのことを憎んでなんていないよね、坊やはお母さんが必死になって坊やのことを助けようと思ったのを全部知っているんだよね。お母さんに出会えて良かった、嬉しく思っているよね。だから54日しか生きられなくても坊やはお母さんとお父さんと会うために54日間を大切にしたんだし、その思い出をずっと胸にしまって天国からお父さんとお母さんのことを見守ってあげているよね」と語りかけてあげるわけです。そうするとご夫婦は泣き崩れて「ありがとうございます。ありがとうございます」と言うわけです。
僕はその横にいてすごく思ったのは、たぶんそのご夫婦は千葉さんの一言ですごく気持ちが救われたと思います。その言葉があるかないかは、すごく大きいことなんです。おそらく千葉さんは、気持ちの中で辛い思いをしている人たちが生きていくには、どういう言葉を必要としているのか、そして人が発する言葉が、辛い思いをしている人に対しての支えになるものなのか、そういったことをきちんとわかった上で、彼はずっとご遺体やご遺族の方々に言葉をかけていたんだと思います。
この遺体安置所では、一人ひとりがご遺体やご遺族に対して声をかけることによって、何とか少しでも前を向いてもらおうという形で動き始めていました。その遺体安置所では、千葉さんが声をかけてご遺族の気持ちを支えていたと思います。ただ、ほとんどの方が千葉さんのような方がいなくても、ご自身でそれをやっていた部分もあるんです。どういうことかというと、いろいろなケースがあるんですが、私がすごく印象に残ったことをいくつか紹介します。

町のための死と、家族のための死

ある消防団の副団長さんがいらっしゃいまして、この方はかなり内陸の自宅で震災を受けて、津波が来るかもしれないということで、すぐに海辺の消防署に行きました。津波が来るかどうかはまだわからない段階で、消防署の前で大勢の方々とどうするかという対策を話していたそうです。そしてふっと周りの人が気づいたら、副団長さんがいなくなっていたそうです。「彼はどうしたんだろう」と言った瞬間に、奥の方から津波が来て、消防署の前にいた方々はすぐに消防署の3階4階に駆け上がって助かったのですが、副団長さんはどこにもいなく、亡くなってしまいました。後で話を聞いた時に、消防署の人たちや町の人はみんな「彼はきっと水門を閉めに行って亡くなったに違いない。だから町のために亡くなったんだ」と言っていました。僕もそれを聞いたときはそうなのかもしれないなと思っていました。
ところが後日、副団長さんの奥さまにお会いしてお話を伺うことがありました。その時に僕が「旦那さんは水門を閉めに行って亡くなられたんですね」と言ったら、奥さんは突然怒って「うちの夫は町を助けるために死んだんじゃありません。きっと私を助けるために死んだんです」と言っていました。「どういうことですか」と聞いたら「消防署からいなくなったのは、水門を閉めに行くのではなくて、私たち家族の身を案じて一生懸命救おうと思って、私たちの家に向かっている最中に津波に流されたんですよ。だからうちの夫は家族のために死んだんです」と言ったんです。どういうことかというと、奥さんの中では、夫の死を受け入れるために、町のために死んだと思いたいんではなくて、自分や家族のために亡くなったんだと思うことで、その死を受け入れられるんだというのです。
つまり死の受けとめ方は人それぞれなんです。例えば消防署の人たちであれば、町のために亡くなったと思うことで自分の気持ちは整理できるんです。けれども家族からすると、町のためじゃなくて自分の家族のために亡くなったんだと思って、気持ちを整理するんです。でも本当は副団長さんがどこに行ったのか、なぜいなくなったのかわからないんですから。でもそうやって、一人ひとりが亡くなられたという現実を受けとめるために、いろいろな形で自分の中で受け入れる工夫をしているんですね。

家族の死、その受けとめ方

似たような話で、つい先日NHKスペシャルだったと思うのですが、高校生の子どもさんを亡くした遺族のお母さまがインタビューに出て、その子どもから津波が来る前に「迎えに来てくれ」というメールが来て、迎えに行こうと思ったら「バスが通ったからバスで帰るから迎えに来なくてもいいから家にいて」というメールが来て、その後、その高校生は流されてしまったそうです。そのお母さんが最後のメールを見せて、テレビのカメラの前で「きっとうちの息子は津波が来ることを知っていて、津波に巻き込まれていた最中に違いない。けれども、私を津波の危険な状況に遭わせないために、バスで帰るから家にいてくれとメールを打ったんです。つまり息子は自分の命と引き換えに私を助けてくれたんです」と言っていました。
これも現実的に非常に厳しい言い方をすれば、おそらく津波に囲まれている状況では長いメールは打てないと思うんです。合理的に考えればお母さんのおっしゃっていることはもしかしたら違うかもしれない、だけどそのお母さんは自分を助けるために自分の息子は亡くなったんだと思うことによって、若い息子の死を受けとめようとしているのだと思います。
別の見方をすれば、現時点でも同じような形で死をどう受けとめているかというのがあるんです。一つの例として、宮城県でも岩手県でも“イタコ”の話があります。イタコのところに行って亡くなった行方不明の自分の身内と話をするのです。先日も私が知っているご遺族の方が、イタコのところに行ってお話を聞いたそうです。30代半ばの女性ですが、お父さんを亡くされてまだ見つかっていないので、イタコを通じて「お父さんは今どこにいますか?」と聞くと、イタコが「僕は湾の中にいる、だけど湾はものすごく温かくていいところなんだ。だから僕は辛い思いをしていると思わないでくれ。僕はお前を強い女性に育てたつもりだ、だから君は僕が見つからなくても気丈に振舞っていられるし、しっかりとしていることができるだろう。だから僕は安心している。町の身元不明のみんなの遺体が見つかったら僕も最後に出てくるからそれまで待っていてくれ。湾の中は魚もたくさんいるし、温かいし、きれいで気持ちいいところだから安心してくれ」と言うわけです。彼女はそれを信じて「私のお父さんがそう言っているから安心できます」と言っていました。

家族の顔に似た、手作りお地蔵さん

これとは別に、岩手県の釜石市に仙寿院というお寺があるんですが、このお寺は震災で亡くなった身元不明や引き取り手がいない遺骨をすべて預かっているお寺さんです。僕も自分の本にそのお寺のことを書きました。震災から1年半経ったある日、岩手県の内陸部の北上市からお寺に突然段ボール箱が届いたそうです。開けてみると、布でつくられた小さな手縫いのお地蔵さんが100体くらい出てきたそうです。その中に差出人の名前のない手紙が入っていて、おそらくおばあさんだと思いますが「私は内陸に住んでいて何もできません。でも、自分ができることというのは縫い物が得意だということだけですので、供養のためにお地蔵さんをつくりました。どうかこれを納めてください」と書いてありました。
住職はありがたいなということで、身元不明のご遺骨を納めているところに100体の人形を置いておきました。そしたら身元不明のご遺族が毎日そこにお参りに来るわけですので、その人形を見て「まだ見つかっていない私のお父さんにこのお地蔵さんの顔がそっくりだ」「まだ見つかっていない自分の子どもにそっくりだ」と言い始めたんです。もちろん手作りですから、お地蔵さんの顔は全部違うんです。おそらくご遺族は、身元が不明だからこそどういう形でもいいから再会したい、自分の手元に帰ってきてもらいたいという気持ちがあったんでしょうね。だから一体一体違うお地蔵さんの顔を見た時に、遺骨は見つかっていないけれど、自分のお父さんや自分の子どもがお地蔵さんになって帰って来てくれたんだと思ったらしいです。そのご遺族が住職にそういう話をした後で、「こういう意見もありましたので、もしそう思われる方はお地蔵さんを自由に持って行ってください」と書いたら、たった1週間くらいでお人形はすべてなくなったそうです。遺族の皆さんは、お人形さんに対して自分の生きる道というか、死の受けとめ方をされているんでしょうね。

生きていくための「小さな神様」

なぜこういうお話をさせていただいているのかといいますと、僕は人間というのは、いろいろな状況の中で、悲しいこと、辛いこと、失ったという事実を受けとめて前に進んでいくものだと思っています。なぜかというと、人間というのは生き物の宿命で、どんな状況にあっても生きていかなければいけないんです。その生きていかなければならない中で、絶望の中だけでは人間は生きていけないんです。なにかしらの光というものを見出して、その上で死というものを受け入れて前に進んでいかなければいけない。人間というのはそういったようなものだと思うんです。
例えば今お話をした、消防団の奥様の考え方であったり、高校生の子どもを失ってそのメールを見たお母さんだったり、イタコの言葉を信じている女性だったり、最後に申し上げたお地蔵さんの顔を見てこれが自分の家族だと思ったご遺族に関しても、すべてそう思うことによって一歩一歩前に進んでいくということだと思います。
すごく陳腐な表現かもしれませんが、人が生きるために光としてつくり出すものを僕は「小さな神様」と呼んでいます。大きな神様というのはたぶん宗教だと思うんです。いわゆる仏教やキリスト教で、お葬式をあげて、お墓をつくって、その上で死というものを受け入れましょうという、それが大きな神様の一般的なあり方だと思います。しかし、人間の状況の中にはそれがかなわない状況というのがあるんです。
例えば、今回の震災のような形で突発的に大きな何かが起きた時に、今回に関しては結局まともに納棺もできない、お墓に埋めることもできない、お葬式もできないという状況なわけです。何年間も闘病していて亡くなったという状況ではないんです。そういう時に、宗教とは別の形で自分自身で光というか、区切りをつけて自分の人生を先につないでいかなければいけないわけです。僕はなぜ「小さな神様」と言ったかというと、小さい大きいということに優劣はないと思っていますが、人間というのはやはりいろいろな状況の中で光がなければ生きていけないし、自分を支えてくれるものは必要だと思います。それに対する必要性というのは、大きな神様を必要とするくらい必要なんです。
僕は千葉さんの言葉に関してもすべてそうだと思っています。彼らが信じているそのお地蔵さんも、科学的に考えれば、お地蔵さんが亡くなった方であるということはないんです。もっと科学的に言えば、イタコの言葉が本当にあっているかどうかなんて誰にもわからないんです。科学的に考えればそうじゃないと言われてしまうんです。でも周りにいる人間や本人はそう信じなければ先に進めないんです。その死というものを自分の中で受け入れられないんです。その時に何が必要なのかというと、周りの人間というのは科学的に話をすることじゃなくて「もしかしたらイタコの言っていることは本当かもしれないね。もしかしたらお地蔵さんになってご家族が帰ってきたのかもしれないね」と言ってあげることなんです。周りの人たちが小さな神様を肯定してあげて、初めて小さな神様はその人にとって小さな神様として成り立つものだと思うんです。
今回震災が起きた直後から今に至るまで、僕がいろいろな所でいろいろな方々と話をして思ったのは、ご本人たちはいろいろな形で小さな神様を求めていて、周りにいる方々がいろいろな形でその小さな神様を肯定してあげることが大事だと思いました。たぶんそれが、それでも生きなければいけないという人間のいちばんの原則というか、それを支えるものだと思います。そうやって震災から1年が経って、2年が経って、3年が経って、一歩一歩今に至るというステップなのだと思います。

今を生きているから、変わってくる

僕はここでお話しをさせていただく前に、控え室でお話をしていたんですが、3年経ってようやく当時のことを思い出しても気持ち悪くならなくなったとか、実はこの石巻に来る前に岩手県にいたのですが、その時にお父さんを亡くした若い女性のご遺族が「3年経って最近お父さんの顔を思い浮かべることがなくなってしまった。亡くなった直後は毎日夢に出てきたし、おばけでもいいから会いたいと思っていたけれど、最近はお父さんのことを思い出すことが少なくなって、そんな自分が辛くて悲しい」と言っていました。
確かに3年くらい経つといろいろな状況が変わってくると思います。その当時のことを思い出すことは少なくなったり、辛い気持ちはあっても涙が出なくなったり、いろいろな変化はあると思います。しかし、僕は必ずしもこれがいけないことだと思いません。なぜかというと、人間というのはどんな状況であっても生きていかなければいけません。生きていけば当然いろいろな優先事項というのが出てくるんです。1年経った時に優先しなければならないもの、2年経った時に優先しなければならないもの、10年経った時に優先しなければならないものが出てきます。しかし、たぶん忘れることは絶対にないと思うんです。
僕だって肉親を失った時の悲しみは当然あります。その中で思い出すのは今でも辛いです。その辛さは5年経っても10経っても変わらないんです。しかし、なぜそれに対して涙をしなくなったのか、それは簡単に言ってしまえば、今を生きなければならないわけで、優先するものが変わってきているんです。だからそれを優先しているだけの話で、生きるということはいろいろな形でいろいろなものを積み上げていくことですから、その中で死というのがあるけれど、その受けとめ方というのが年を追うごとに変わっていっているのだと思います。
 逆に言えば、そういう変化が訪れるということは、その人がきちんと生きているということだと思うんです。きちんと生きている方こそ優先する事項がいろいろと出てきて、自分の過去に起きたでき事に対する受けとめ方が少しずつ変わってきているのだと思います。そういった意味で言えば、僕は当事者の方々がそれを嘆く必要はないと思っています。自分が生きていく中で一つひとつ大切なものを見つけていって、それを優先していけばいいと思うし、その人がお父さんを本当に忘れたわけではないのですから、一つひとつステップして行っていただければと思っています。

自分の環境を自分で変えていける可能性

今回、このイベントの「今できるプロジェクト」の中で「こども未来応援教室」というサブタイトルがついています。つまり、こどもの未来を応援するということです。僕がこの講演を依頼されたのは、石巻出身の河北新報の方からでした。その方が僕にこの講演の中でぜひ話してもらいたいと言ったのは、「石巻という小さな町でも、外に出ればどれだけ子どもにとって未来・可能性があるのかを話してもらいたい」と言われました。僕はこの部分が非常に重要だと思っています。
 これは石巻だけではなく今すべての日本で言えるのかもしれませんが、なかなか希望が見出せない状況というのがあります。希望を見出せないというのは、果たして自分が勉強してどうにかなるのか、あるいは自分の置かれている状況を変えることはできないのではないか、自分が生きている社会を変えることはできないんじゃないかと思ってしまいがちだと思います。確かに世の中にはいろいろな不公平というのがあると思います。でも、僕がいつも言っているのは、人間というのは自分が生まれ育った状況や環境、あるいはこれからの社会を変えるという意味では、すべての人間が等しく持っているのが、可能性なんです。可能性だけはみんな等しく持っているんです。
例えば僕はよく言うのですが、皆さんが本当に世の中や自分の環境を変えることができないと思っていて、震災が起きて自分の家もお金も仕事もなくなって、進学もできないかもしれない、あるいはここにいても仕事がないかもしれない、そう思ってしまいがちだと思いますが、僕の自分の経験から言いたいのは、必ず自分の環境というのは自分で変えられるんです。いちばんわかりやすく言えば、小学生が学校でいじめられている場合、皆さんがその子どもの立場になったらいじめられずに済むんです。少なくても僕であればいじめられずに済みます。なぜかというと、いじめられないようにするにはどうすればいいのか、あるいは自分の置かれている状況を誰に対してどのようにきちんと伝えれば自分の環境が変わっていくのかを自分が知っているからなんです。知っているから例えば僕が小学生に逆戻りしたとしてもいじめられずに済むんです。
例えば、両親が失業してしまった貧しい家庭にいたとすれば、今の僕であればどこに奨学金があって、どこに対して何の勉強をして、前向きに進もうと思えばどうやってステップアップできるかがわかるんです。だからこそ貧しい家庭にあったとしても、自分で自分の置かれている環境を変えていくことができるんです。
それには何が必要なのかというと、そこで学校が必要になってくると思います。学校は単に偏差値で受験勉強をするところではないです。自分が置かれている状況は、日本全体の中でどういう状況なのかということをきちんと把握する、社会の中で自分の立ち位置を理解する、そして自分の友だちや先生たちと語り合うことで、自分の状況を自分で言葉にするという学習を身につけていく、訓練の場所が学校です。その訓練をしっかりしさえすれば必ず子どもたちはどんな状況に置かれても、自分の周りの環境を変えることはできるんです。そして、変えることができた時に初めて自分の環境とともに社会も変えることができるんです。一人ひとりがそういうことをやり続けることによって、その社会や地域や国がよくなっていくものなんです。

震災の体験を、将来の財産に変えていく

なぜ震災の話の中でこの話をしているのかといいますと、今回来場いただいた方々は、被災3県の方だったり、震災に対していろいろな形で関わっている方がほとんどだと思います。その状況の中にいると、なかなかその大切さやその重要性や意味がわかりずらいです。けれども、実は皆さま方は前向きにとらえれば、ものすごく大きな体験をなさっているんです。どういう体験なのかというと、今すぐに利益を生む何かができるわけではなくても、この先10年20年30年先を考えたときに、もしかしたらここにいる小学生や若い方やお母さま方はいろいろなことができると思います。
僕がいちばん最初に震災の取材をしたときに、小学館という出版社に声をかけたところ、小学館からすぐに連絡がきて、それで被災地の取材に行ったという話をしました。僕は最初は知らなかったんですが、取材が始まって1ヵ月した頃、その担当の彼と一緒にタクシーを待っていた時に彼がボソッと「僕は実は神戸の震災のときの被災者なんです。家が全壊しているんです」と言ったんです。その後、別の新潮社という会社で仕事をするのですが、その編集者と一緒に歩いていたら「実は私も被災はしていないけれど、父がたまたま神戸の震災のときに神戸にいて、すぐに見なくちゃいけないから来いと言われて、まだ学生だったときに全部見て回ったんです」と言ったんです。
どういうことかといいますと、彼らはたぶん自分の中では意識をしていなかったと思いますが、彼らの中では神戸の震災の記憶というのがあって、それは何かしらの実体験として震災を感じるようになったんでしょう。あるいは震災を体験したり見ているからこそ、自分が何かをしなければならないと思ったんでしょう。彼らが編集者という仕事なのであれば、真っ先に必要な仕事というのは、自分のできる範囲の中で震災の取材をすぐにやって動いたということだと思います。
皆さんがご存じのように、今回の震災が起きたときに真っ先に来たのは神戸の方であったり、兵庫県警だったり、大阪の方だったり、あるいは新潟の方だったり、でした。つまり、自分ではなかなか認識していないかもしれませんが、おそらく皆さま方は今後日本で必ずある何かしらの有事の状況のときに、その起きていることを当事者としての感覚で感じられるんです。あるいは皆さんの感覚でしか感じられないことというのがものすごくあると思うんです。それは他県の人間や震災を知らない人間にとっては、やりたくてもできないことなんです。いつ皆さんの力が発揮できるかわかりませんが、僕が思うのは、皆さま方が今回体験したことはものすごく大変なことだったと思います。それに対して皆さまはそれでも生きていかなければいけない。それが人間なんですね。そのときに、今回の震災をどうやって自分なりにいい方向に受けとめるか、そして未来の中で自分の体験をどうやっていい方向に行動として移していけるのか、自分の体験を財産に変えていけるのかどうか、こういったことが僕はものすごく必要だと思います。
そういった積み重ねの中で、今回、出版社の取材であったり、自衛隊であったり、警察であったり、そういう方々が真っ先にこちらに向かってきてくれたのと同じような形で、有事のときに今度は私たちがそっちに向かうという、その積み重ねで国や社会がよくなっていくと思いますし、より豊かな社会をつくっていくのはその積み重ねだと思います。

子どもたちが一歩外に出ていくために

その積み重ねをするためには、一歩外に出ることが必要になってきます。特に若い世代はそう思います。石巻の中にいれば周りの方は皆さん似たような体験をしているかもしれませんし、自分が体験している経験がどれだけ大きなものなのか、そして自分がそれに対してどう向き合っていかなければいけないのかは、なかなかわからないかもしれません。若い方が未来に対して羽ばたくように、石巻にとどまることも必要だと思いますが、自分の状況や周りの環境を変えるという意味で一歩外に出て、人生の中で1回だけでも外に出てみて、客観的に自分の体験や持っているものや考え方を見つめ直したときに、今思っていることの何倍もいろいろなことができると思うし、いろいろな未来が開けてくると思います。
大人ができることはそのチャンスをつくってあげることだけなんです。最終的にやるかやらないかは本人だけしかないです。僕たちがそうだったように、最終的にそれをやるかやらないかは本人の意識と、いろいろな運もあるでしょうし、いろいろな巡り合わせもあると思います。けれどもその巡り合わせに対して、その機会をつくってあげられるかどうかというのは、周りの大人がしてあげることなんです。逆に言えば、周りの大人にしかしてあげられないことなんです。だからこそ僕は皆さんに、石巻や宮城県の中の当事者意識を持った子どもたちが、自分の環境を変えるためにいろいろな努力や勉強ができるように、いろいろな形をつくってあげて、さらにこの町から1回外に出させてあげられるような環境をつくってあげてください、と言いたいです。その上で子どもたちがいろいろなことを考えて戻ってくるのであれば、それもいいと思うし、さらに外に行って自分の力を試してみるのも一つだと思うし、あるいは何かが起きたときに自分の体験をどう活かせるのかというのを考えるのも一つだと思います。
僕も一人の大人としてそういう環境を一つでも多くつくってあげたいと思いますし、皆さま方一人ひとりが自分のお子さんやお孫さんに対して、そういう環境をつくってあげれば、よりよい社会が生まれてくると思います。その上でたぶん最初に言ったような小さな神様を大切にしたり、社会を変えていくということが生まれてくるんだと思います。
今回の震災のできごとをいい意味でとらえて、未来を切り開いていく機会にしていただければと思っております。ご清聴ありがとうございました。

《フリーアナウンサー高山香織さんとのトークセッション》

高山:震災の場にいて、子どもたちの未来について、どのような思いを持っていましたか。

石井:僕は世の中というのは基本的にはつないでいくものだと思います。僕も自分がおじさんになったなと思ったのは、30歳を過ぎたときに子どもが全員かわいく見えたんです。なぜかわいく見えるのかといいますと、子どもというのは全員等しく可能性があるんです。どんな子どもであっても必ず未来に対する無限の可能性があるんです。でもその無限の可能性を潰すのも活かすのもすべて大人なんです。やはり子どもが一人ですべてを切り開いていくというのは大切だと思うし、そういうことができればいいと思いますが、なかなかそうじゃない状況もあります。そのときに周りの大人がその子どもたちの可能性を無限に広がるような状況をつくってあげるのが必要だと思っています。そういう可能性が無限にあることがいい社会・希望がある社会だと思っています。

高山:石井さんは世界中を回って多くの人たちの営みを見てきていますが、震災を経験したという人生経験を今度どんなふうにプラスに変えていったらいいと考えてますか。

石井:それはたぶん僕に聞くより高山さんにお聞きした方がいいと思うんですが、高山さんも実は神戸なんですよね。

高山:私は神戸に実家があり、父は長田区で大きな震災に遭って、家が真二つに割れたという経験がありました。私自身はこの仙台で東日本大震災を経験しました。私は震災の日は3才の子どもと生まれて40数日の子どもを抱え、夫は2ヵ月不在という時期でした。その中、震災を経験した父が、小さな子どもに不安を与えない生活をさせてあげたいと「山形空港の3月16日の夕方の便を押さえたからとにかくそれに乗りなさい」と連絡してきました。小さい子ども2人抱えてなんとか山形まで移動して、そこから神戸まで移動しました。震災を経験した父の助言とか、前倒ししてこうした方がいいとか、すぐに動いてくれたことに感謝の気持ちでいっぱいでした。

石井:震災の受けとめ方というのはさまざまで、今はわからないことだと思うんです。でもその体験は自分の中のどこかに引っかかって残るものだし、何かが起きたときに突然それとそれが合う瞬間があると思うんです。そのときに初めてその人が必要な存在になると思うんです。その人にしかできないことが出てくると思うんです。だから常日頃から震災に対してどうやったらうまくアプローチできるんだろうと考えることは必要だと思います。それは一生懸命頭だけで考える必要もなくて、自分の中でしっかりと体験がありさえすれば、何かあったときにその中で自分がやるべきこと、やらなければならないことというのが見えてくると思うんです。
被災地の若い大学生や20代くらいの方々やNPOをつくった方々が、「今自分がどうしたらいいのかわからない」とか、「自分はこう思っているんだけれど、これが正しいかどうかわからなくなってきた」とかよくおっしゃる人がいます。彼らは今すぐ何かをつくらなければいけないと思って一生懸命結果を求めてしまうんですが、もちろんそれは必要なんですが、それ以外の体験の活かし方もあると思うんです。それを自分の中でしっかりと持ってさえいれば10年20年経って震災じゃなくても違う何かしらがあるかもしれないんです。 
例えばさっき、遺体安置所で千葉さんという老人が遺体に声をかけたという話をしましたが、彼は葬儀屋さんに勤めていたときにたまたま上司の人から「ご遺族が悲しんでいるときは、遺体に声をかけてあげたら家族も喜ぶからそうしてあげなさい」と言われたらしいです。しばらくすると、高齢化している社会ですから孤立死が多いので、何か自分にできることがないかと思ったときに、それが遺体に声をかけることだったらしいです。それが震災に役立つなんて思わないわけですが、その体験をしているからこそ震災が起きたときに、これを遺体安置所の中でやればいろいろな方が救われるのではないかと思ってやったわけです。
今すぐに何かに活かされなくても何か大きなことがあったときに必ず活かせる状況というのが出てくると思います。そういう意味で、自分の体験を大切にしていただきたいと思いますし、日常の中で皆さま方が自分の体験をポジティブにとらえて、それに対して引け目に考えるのではなくて前向きにそれを受けとめる、だからこそ何かが起きたときにそういうことができると思うんです。そういった意味で一人ひとりが体験ということを大切にしていただければと思っています。

高山:この震災のとらえかたとか、これからの生き方に対して、今日の講演では一面的ではなくていろいろな立場でいろいろなところからとらえようというのを感じました。

石井:先ほどの話についても一面的に考えれば、「イタコなんてそうじゃないよ」とか、「子どもが津波に飲み込まれる死ぬ間際に長文のメールなんて送れないよ」とか、そう言ってしまうんですが、人間というのは必ずいろいろな面があって、非合理的なことであっても自分の中でプラスに変えて生きていくんです。つまり、いろいろな非合理性みたいなものも、矛盾みたいなものもすべて抱えながら生きていくのが人間の人生だと思うんです。それはある種、厳しい状況に置かれている人であればあるほどその矛盾を抱えなければいけない生き方になっていきます。もちろんそこに対して許されることと許されないことが当然出てきますし、その中でいろいろな判断が必要だと思っていますが、人間は生きていくというのは多かれ少なかれいろいろな矛盾を抱えていくものですから、その矛盾を周りの人間はどうとらえてあげるのか。
イタコの話では「そうかもしれないね」と言ってあげることだったり、子どもが送ってきたメールが「本当にお母さんを助けようと思って送ったのかもしれないね」と言ってあげることだったり、一つの面から見るのではなくていろいろな面からその人を支えてあげる、その人を肯定してあげる、その人の人生を肯定してあげる、そういうことが必要だと思っています。そういうことを一人ひとりが思えば、それほど生きやすい人生はないかもしれない。逆に言うとそれがない生活環境というのは、自分を肯定してもらえないんです。
最近は鬱病が多いとか自殺が多いという話を聞きますが、その人に対して一義的な生き方、一つの面からでしか生きなければならないことを社会全体が強いているんですね。人間は本来いろいろな矛盾を抱えて生きていくものなのに、その矛盾は全部ダメだと言われてしまうと生きていけないんです。どうやっていいのかわからなくなってしまう。それがたぶんその人が潰れてしまう理由にもなると思うんです。もちろん全部が全部許すということではないですが、いろいろな形で人間が生きるということの多面性は認めてあげて、いろいろな面から肯定してあげるということが重要なんだと思います。

高山:石井さんの言葉を聞いていると、何かが起きても前向きなとらえかたをしようという気持ちになってきます。

石井:僕はやっぱり生きるということは、前向きじゃないと生きていけないと思います。人生はいろいろな状況の中で辛いことがあるんです。それは当たり前の話であって、たぶん人生では辛いことの方が多いんですね。だけどその中で人間はそれでも生きていかなければいけないわけです。であれば、その置かれている状況をどうやってポジティブにとらえていくかということが非常に大切だと思っているし、もしかしたら本当は大人がそれをどんどん見せていかなければいけないんじゃないかと僕は常に思っています。  
よく「子どもの笑顔に救われる」と大人が言っていますが、それは違うんじゃないかと思います。僕は大人が笑顔である社会の方がいいと思うし、自分がそれでも生きていくんだ、それでもポジティブにとらえていくんだということを一人ひとりに示すことをするともっと社会がよくなるんじゃないかという気持ちはあります。

高山:大人の笑顔のもとに安心した子どもの笑顔が生まれるというところもあるのではないでしょうか。

石井:両親が笑わなかったら子どもはぜったいに笑わないですよね。それは100%そうだと思います。大人は格好悪くても笑わなくちゃいけないと思っています。

《参加者との質疑応答》

司会:ここまで石井さんに多くのお話を伺ってまいりましたが、おそらく会場の皆さまにも石井さんに質問があったり、こんなことを聞きたいということがおありだと思います。どなたかいらっしゃいますか。

参加者:きちんと生きていれば、1年2年経つと涙がなくなってくると言いますけれど、私は1年2年3年経つほど涙が出てきます。自分では、それでもいいと思っています。

石井:たぶんそれも人それぞれいろいろな受けとめ方があると思います。1年2年経ってさらに涙が流れていらっしゃる人もいますし、そうじゃない方もいますので100人いたら100通りの考え方や受けとめ方があると思うんです。いちばんいけないのは、どこか1点だけで「こうなんだよ」と押しつけてしまうとそうじゃない人は辛い思いをしてしまいます。だから本当にいろいろな形があっていいんだよということを許すというか、受け入れるというか、それが当たり前だという社会がいいと思います。

参加者:私は避難所と認められないところで1ヵ月ほどリーダーをやっていました。子どもたちは将来、いろいろなことがあると思いますが、その中でリーダーになるような人に育って欲しいと思っています。そして子どもたちには弱い立場に立ってやってもらいたい。そう期待したいと思います。

司会:今の方から、石井さんの話を受けてのお心とお気持ちを伺うことができました。

参加者:今日は非常に多面的な面から、被災者を励ましてくれるようなお話を伺いまして、非常に力が沸いてきました。以前、被災してから1年くらい経ってからダライラマが来石し、彼は仏教者ですからカルマといういわゆる「人間が生きる業」という点から話をしていたことを思い出しました。今日は石井さんから、たいへんわかりやすくお話いただき、何とか生きていこうということで力をいただきました。

石井:ありがとうございました。そう言っていただけることだけで嬉しいです。

参加者:石井さんの、震災を多面的にポジティブに、そして生きていく中で矛盾を抱えながら優先順位が変わっていくというお話に共感を覚えております。私も被災地に何度も足を運び、ボランティアと慰霊をさせていただきました。その中で私がやっていきたいなと思ったのは、被災地の中でお寺さんが流されて、神社が流されて、慰霊碑もまだ立っていない中で、多くの方々が何もないところでひたすら祈っているのを見て、どうしても祈りの場をつくってあげたいという思いにかられました。当時、宗教関係の方がたくさんボランティアでいらっしゃったものですから、その方々といろいろと話をして考えたのが、最初はお寺の境内に慰霊碑をつくってあげたいということだったんですが、たくさんの方が身内を亡くしているのを見て、これはぜったいに語り継ぐということが必要だと思いました。単にお寺さんに慰霊碑を建てることではなくて、語り継ぐためにそこで何かアクションを起こさなければいけないということで、優先が祈りの場をつくることから、伝えていくことに変わって、さらにもっと積極的にお寺さんや地域を拠点にして語り継ぎをしたり、防災の専門家の方に来ていただいて講演会や講習会を開いていくということで、これから長いスパンでやっていこうかなと思っています。

石井:ありがとうございます。よく「何をやればいいんですか?」と聞かれることがあるんですが、自分が何をやればいいのか、正しいのか間違っているのかと言われると、僕は必ずこう答えています。「現場に足を運んで、その中で自分がやらなければいけないと思ったことは、誰がどう言ったって絶対に正しいんだ」と言っています。なぜかというと、その人の直感なんです。たぶん現場に行ったときに当然その社会の中で何かを感じる、感じるからこそこれをやらなければと思うわけです。そうじゃないと思っている人もいるかもしれない、だけどその人がそう思っている限りは、僕は絶対に正しいと思うんです。あとはそれに対して、もちろん何か一つのことをやれば何かを言ってくる人もいるし、どれもうまくいかない時もあるけれど、その人が直感で正しいと感じたら僕はやっぱりそれをやるべきだと思います。
最終的にいうと、どれが正しくてどれが悪いかは誰にも言えないと思うんです。一つのことについても皆さんの意見は割れると思います。これは人が複数いれば当然なんです。けれどもそれが100%悪いかというとそうではなくて、一つでもいいと思えばいいと思うんです。人間の直感というのはすべて正しいものだと思っていて、それを臆せず、自分が周りに何と言われようとも、自分が正しいと思ったことをきちんとやっていくというのが本当にやるべきことだと思っています。そこに対して、世間一般のいいとか悪いとかそういう価値判断でぶれる必要は僕はないと思います。
現地にいてそれをやらなければいけないと思えるというのは、その人の特権なんです。その人しか感じられないことなんです。そうであれば、やはりその人にしかできないことだと思うので、そういう意味で一人ひとりが現場の中で何かを感じて必要だと思うことをやっていただきたいと思っています。

本原稿は、2014年3月23日石巻専修大学で開催された「今できることプロジェクト/こども未来応援教室」における石井光太氏講演「被災地で見た人間らしさと光」の採録をもとに編集したものです。一部割愛させていただいた箇所がありますので、ご了承ください。