政宗公 御城下巡検 MAP
1:青葉山・川内
1:青葉山・川内イメージ
2:大橋
2:大橋イメージ
3:大坂
3:大坂イメージ
4:御譜代町
4:御譜代町イメージ
5:芭蕉の辻
5:芭蕉の辻イメージ
6:東一番丁
6:東一番丁イメージ
7:奥州街道〜柳町通り
7:奥州街道イメージ
7:奥州街道〜柳町通り
7:柳町通りイメージ
木村 浩二 イメージ
「ブラキムラ」こと
木村 浩二
政宗公 御城下巡検 ロゴ
仙台藩祖・伊達政宗公が城下町を築いてから416年。奥州・仙台おもてなし集団伊達武将隊の政宗公が、支倉常長と公募で選ばれた13名のお伴の衆を従え、仙台のまちを巡検しました。案内役は「ブラキムラ」こと、仙台まち歩きの達人、木村浩二さん。往時に思いをはせながら歩いた「政宗公御城下巡検」(10月1日実施)の様子を振り返りながら、仙台の知られざる魅力に迫ります。
伊達武将隊 伊達 政宗 支倉 常長 イメージ
伊達武将隊
伊達 政宗 公 支倉 常長
巡検スポット
1:青葉山・川内
1:青葉山・川内イメージ
仙台城大手門隅櫓。
正面の短い坂道は、かつて侍たちが歩いた登城路
木村:仙台国際センターの辺りには「伊達家御一門」と呼ばれる伊達家の重臣・登米伊達氏と水沢伊達氏の大きな屋敷がありました。城に向かう侍たちは両屋敷の前を通り、突き当たりの石垣を左、さらに短い坂を上って右へという具合に2度曲がって大手門をくぐり登城しました。これは敵の侵攻を防ぐ「升形」という防御用の道のつくり方です。
常長:登城路も工夫をなさるとは、さすが殿ですね。
巡検ポイント「川内」は「お城の内側」を表す
かつて本丸、二の丸、三の丸があった広瀬川西岸は、ほぼ全域が仙台城と位置付けられていた。「川内」は、広瀬川のこちら側、つまり「お城の内側」を意味し、江戸時代は仙台の中心地であった。現在、二の丸跡は東北大学川内キャンパスとなり、三の丸跡には仙台市博物館が建っている。
木村:創建当時の大橋の位置は今と違い、西側のたもとが少し上流側にありました。この橋は洪水により何度か架け替えられています。橋の上からのぞくと川底に丸い穴が開いているのが見えます。あれは江戸時代の橋脚の穴です
政宗:大橋が現在の位置になったのはいつ頃であるか?
木村:明治25年です。江戸時代は木製、明治は鉄製、昭和はコンクリート製と、変遷を重ねて現在に至っています。
巡検ポイント大橋・大坂・大町に「大」がつく理由
大手門につながる〝大手筋〟にある橋・坂・町であることから「大」がついている。この〝大手筋〟は侍たちの登城路だった。大橋のたもとから東の方向を見ると、かなたに名掛丁のビルが見え、大手筋が直線であったことがわかる。通りの上に広がる空は、侍たちが見た〝江戸の空〟と変わらない。
2:大橋
2:大橋イメージ1
川を見おろすお伴のものたち。
意外な発見に驚きを隠せない
2:大橋イメージ2
川底に残る橋脚を立てた穴。
現在よりやや上流側に橋があったことが分かる
まち歩きクイズ1
江戸時代の城下町仙台が最も大きくなった時の人口は何人くらいか?
1-約4万人
2-約6万人
3-約10万人
ヒント
弘前、米沢の城下町は3〜3.5万人と考えられています
答えはページ下の「正解発表」をチェック!
3:大坂
3:大坂イメージ
大橋付近から東を望む。
今はなだらかな大坂だが、当時はまっすぐな道ではなかった
木村:現在の大坂はなだらかですが江戸時代は違いました。
常長:本当だ、絵図では「く」の字に曲がっていますね。
木村:9mもの崖があってまっすぐ登れなかったためです。この高低差を生み出したのは広瀬川です。仙台の町は広瀬川が岩盤を削り出して作った河岸段丘の上に広がっています。市内には下町・中町・上町という落差5mほどの三つの大きな段丘があり、中心部は中町段丘の上にあります。
巡検ポイント片平丁〜西公園には重臣の屋敷があった
大坂を上った西公園には、市内88カ所にある標の49番目「大坂」「大町頭」と記された標がある。そんな西公園を含む片平丁から市民会館までの約2.5㎞には重臣の屋敷が集中していた。寛文年間の絵図によれば園内には片倉小十郎、土佐殿、石母田織部、伊達安芸らの屋敷があった。
木村:「御譜代町」とは米沢・岩出山から政宗公についてきた商人が暮らした町で、大町、肴町、立町、南町、柳町、荒町の6町を指します。彼らは城下町の一等地で商売をしていました。絵図によれば大町西端には他藩の大名や使者、幕府の役人などが利用した「外人屋」という宿泊施設もありました。「外人」とは仙台藩以外の人のことです。
政宗:当時日本という概念はなく、藩=国であったのじゃ。
巡検ポイント荒町は若林城築城に伴い南東へ移転
御譜代町の荒町の人々は若林城築城に伴い、現在の場所へと集団移転した。以後荒町は仙台と若林、二つの城下町をつなぐ役割を果たした。また、藩から麹(こうじ)の専売権が与えられたこと、移転先の水が良かったことなどから、荒町ではみそ、しょうゆ、酒の醸造が盛んに行われるようになった。
4:御譜代町
4:御譜代町イメージ
政宗公に仕えてきた商人たちの町
「御譜代町」の西端
まち歩きクイズ2
城下を南北に通る奥州街道の道幅はどのくらいか?
1-約4.5m
2-約6.5m
3-約10.5m
ヒント
奥州街道だった荒町の現在の道幅は約8mです
答えはページ下の「正解発表」をチェック!
5:芭蕉の辻
5:芭蕉の辻イメージ
交差点角に立つ石標には、
城下町の建物も描かれている
木村:道路が直角にクロスする四つつじ、ここが芭蕉のです。東西に走るのは大町の通り。これと直交する南北の通りが奥州街道です。このつじから北側は、国分町という商人の町でした。芭蕉のの角々には立派な建物がありました。城下町の建物のほとんどが平屋だったのに対し、この4軒は瓦ぶきの二階建てで、大変目立っていたようです。
常長:城のやぐらのような造りですね。
巡検ポイント「国分町/こくぶんまち」は「国分衆の町」
国分町は中世にこの地を治めていた国分氏の家来が暮らした「国分衆の町」で、大町に次ぐ繁華街だった。「まち」と読むのは、仙台では商人や町人が住む地区を「町/まち」、侍が住む地区を「丁/ちょう」と呼び分けていたため。東一番丁から東七番丁には、中級の侍たちが多く住んでいた。
まち歩きクイズ3
城下町全域の中で侍屋敷の敷地が占める割合は何割くらいか?
1-約3割
2-約5割
3-約8割
ヒント
城下絵図に名前の書かれた侍は、最盛期には3,200程でした。
答えはページ下の「正解発表」をチェック!
木村:仙台はあちこちで河岸段丘を感じられる町ですが、藤崎百貨店の1階では明確な落差を見ることができます。大町側と青葉通り側のフロアの間にある16段の階段、あれが広瀬川の川岸にあった崖の高さです。大町の通りに面していた店を拡張する際に、河岸段丘で落差が生じてしまった床を階段でつないだということですね。町のど真ん中を流れていた、広瀬川の流れを感じていただける場所です。
巡検ポイント「杜の都」の原風景は屋敷林にあり
東一番丁の通りの両側には、広大な敷地を持つ侍屋敷が連なっていた。政宗公は屋敷林として、建材になる杉や食料となる果樹などの植林を奨励していたため、これらの屋敷には木々がうっそうと生い茂っていた。江戸時代のこの風景が、「杜の都」の原風景と言われている
6:東一番丁
6:東一番丁 藤崎本館階段 イメージ
藤崎本館1階にある階段。
河岸段丘の地形に合わせた建物であることが分かる
6:東一番丁 藤崎本館 イメージ
東一番丁(現在の愛称はサンモール一番町)沿いに建つ藤崎本館。
青葉通側の外観
7:奥州街道・柳町通り
7:奥州街道・柳町通りイメージ
柳町通。
現在は途中で寸断されているが、以前は直線でつながる奥州街道
木村:奥州街道は芭蕉のから御城下の端の河原町まで、8回屈曲します。1回目は突き当たりの東北大学片平キャンパスを東へ。柳町通と交わるこのT字路は江戸時代のままです。ここを西に向かうと片平丁で、その先は崖でした。柳町に入るとタゼン本店があります。なんと慶長元年(1596年)創業です。
政宗:腕のよい職人として、わしが大坂から連れてきたのじゃ。400年以上も、この地に居を構えておる。
木村:その柳町通、大日堂の手前を南に曲がり、奥州街道は北目町に入っていきました
巡検ポイント町割りに縁のある野中神社と大日堂
城下町をつくるとき、政宗公は自ら町割りを指示したと言われている。町割りを行う際には「縄張り」といって長い縄を使って街区を決める。野中神社はその時使った縄が奉納された神社、大日堂は縄を焼いた灰を埋めた場所に建てられたお堂と伝えられている。
まち歩きクイズ4
中級クラスの侍屋敷地(100〜150石)の面積はどのくらいか?
1-175坪(約580㎡)
2-250坪(約830㎡)
3-420坪(約1490㎡)
ヒント
現在の住宅団地の敷地は、50〜100坪程が一般的です。
答えはページ下の「正解発表」をチェック!
政宗公&常長のふたり反省会
政宗公&常長 イメージ
「ブラキムラ」から まち歩きのすすめ
歴史にとらわれずに江戸時代の痕跡を拾って歩くのが、私のまち歩きです。「空襲で焼けて何も残っていない」と言われる仙台ですが、地形や道路などに着目すると、町中の道筋は大半が江戸時代のままであることがわかります。 読者の皆さんにも、自分なりのマップを作ってまちを歩き、仙台の良さを発信してほしいと思います。政宗公のまちづくりの理念を継承しながら、良いところをさらに伸ばしていけたらいいですね。
■プロフィール
「ブラキムラ」こと
木村 浩二 氏
まち歩きを続けて約50年。元仙台市職員として仙台の歴史研究に永く携わる。NHKの人気番組「ブラタモリ 仙台篇」の案内役を務めて以来、「ブラキムラ」の愛称で親しまれている、仙台まち歩きの達人。現在は宮城学院女子大学の非常勤講師として、「歴史散歩道」などの講座も行っている。
河北新報掲載紙面
2017年10月26日掲載
4面イメージ
4面
2-3面イメージ
2-3面
1面イメージ
1面
まち歩きクイズ 正解発表
1:江戸時代の城下町仙台が最も大きくなった時の人口は何人くらい?
1-約4万人
2-約6万人
3-約10万人
仙台の城下町が一番大きくなったのは、慶長6年(1601年)の開府から90〜100年後の元禄の頃と言われています。同じ頃、弘前や米沢の城下町は3万〜3万5千人程度だったと考えられていますので、当時から城下町仙台には多くの侍や町人が暮らしていたことが分かります。
2:城下を南北に通る奥州街道の道幅はどのくらい?
1-約4.5m
2-約6.5m
3-約10.5m
芭蕉の付近を通る奥州街道(国分町通)の現在の道幅は約10m。しかし当時の道幅は約6.5mだった。いわば国道にあたり、参勤交代も歩いた道。中央には堀も流れていたため、対面通行で片側3mとも言える街道。現代の感覚からすると決して広い道ではなかった。
3:城下町全域の中で侍屋敷の敷地が占める割合は何割くらい?
1-約3割
2-約5割
3-約8割
最盛期、城下絵図に名前の書かれた侍屋敷の数は、人口約6万人のうち3,200人程度。しかし、屋敷の敷地は城下町の全域の約8割も占めていました。政宗公は侍をリストラせずに、配下についた別の殿様の家来、敵方の子孫なども受け入れました。その侍たちに土地を与え、屋敷林を育てることを奨励。広い屋敷地を持つようになったと考えられています。
4:中級クラスの侍屋敷地(100〜150石)の面積はどのくらい?
1-175坪(約580㎡)
2-250坪(約830㎡)
3-420坪(約1490㎡)
現在の一般的な住宅の敷地は50〜100坪程度。当時の侍たちには、相当な広さの敷地が割り当てられていました。「足軽」と呼ばれる下級武士の屋敷地でも、175坪程の広さがありました。「足軽」と言えども、現代人の2〜3倍の敷地を持った屋敷に暮らしていたのです。
当選者の発表について
当選された方にのみ、後日メールにて通知いたします。
まち歩きクイズへ回答受付は終了しました。全問正解者を対象に厳正な抽選を行い、当選された方には11月10日頃までに事務局よりメールにてご連絡いたします。尚、メールによる連絡をもって当選発表に代えさせていただきます。

協賛

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(順不同)
木村 浩二 イメージ
Date FM 政宗公 御城下巡検 ロゴ
10/29sun19:00〜19:55ON AIR!
特別番組の放送は終了しました
出演:伊達武将隊 伊達政宗公、木村浩二、支倉常長、板橋恵子
Date fm 周波数:77.1MHz http://www.datefm.co.jp/
伊達政宗 支倉常長 イメージ

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