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東北大100周年企画




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第2部 実学の系譜 5
肺移植への道/基礎を蓄積、技法確立

研究室に呼吸器外科の歴代教授の写真が並ぶ。系譜を継ぐ近藤さん(左)は移植スタッフと語り合う=仙台市青葉区の東北大加齢医学研究所

 「これは大変だ…」。移植を直前にして難題にぶつかった。移植を受ける患者の胸を開くと、摘出する肺が内壁にぴったりと癒着している。2004年7月、東北大で7例目となる脳死肺移植手術だった。

<国内最多の9例>
 血管を傷つけ、大出血させてはいけない。「慎重に切り離そう」。加齢医学研究所教授の近藤丘(56)が少しずつメスを入れていく。摘出だけで9時間、提供者の肺を移し替えるまで計15時間50分をかけた難手術を成功させた。

 提供された肺は神戸市の病院で摘出された。近藤の考案した保存液「EP4」を満たした袋の中に密閉、新鮮さが保たれたまま、仙台市まで空輸した。

肺の保存は8―12時間が限度とされていたが、この手術で近藤の保存液の実効性も証明された。

 昨年12月には、3人に対する国内初の肺、膵臓(すいぞう)・腎臓、肝臓の同時脳死移植が行われた。肺は、岡山大と並んで国内最多の9例目。東北大はこの分野をリードする。背景には、加齢医研の前身の抗酸菌病研究所から続く呼吸器外科研究の蓄積がある。

 1941年、抗酸菌研は肺結核やハンセン病の研究機関として創設され、時代の流れとともに研究の中心は肺がんなどに移っていった。外科学の教授だった鈴木千賀志(1910―79年)は、米国で研究が始まった肺移植に着目。58年から動物実験による手術技法の確立を目指した。

 63年、医局に入ったばかりの藤村重文(70)=現名誉教授=は、鈴木から「同種肺移植を研究しなさい」と命じられる。それまでは、切除した肺を元に戻す自家移植が中心。異なる生体から移植する肺の同種移植に取り組むのは、藤村が国内で最初だった。

<内膜同士を密着>
 難敵である免疫機能による拒絶反応をどう抑えるか。血管などをつなぐ吻合(ふんごう)で、血栓ができるのをどう防ぐか。藤村は毎週2日、イヌを使った移植実験を試みる。没頭ぶりに、鈴木からあだ名をもらう。「君はドクターではなくて、ドッグターだ」

 手技の上達は目覚ましかった。縫い方を工夫し、損傷組織が露出しないように血管の内膜同士を密着させる新たな手法を完成。移植だけでなく、気管支形成術の技術向上にもつながった。

 近藤は79年に入局した。藤村と2人きりの研究が続く。イヌの実験を毎週繰り返すのには驚いたが、やがて、基礎の大切さに気付く。

 外出中に新しい実験方法を思いついた藤村が、地面に図を描き始めた。近藤もしゃがみ込んで意見を加える。「どこかの菊人形展の会場だった。夢中で議論したな」と藤村は振り返る。

<意思生かしたい>
 90年代。免疫抑制剤の開発が飛躍的に進み、移植手術の準備は整った。だが、肝心の臓器移植に関する法律がなかなか成立しない。肺移植さえできたら、命を落とさずに済んだ患者を何人もみた。97年、臓器移植法が成立。東北大は脳死肺移植を実施する4施設の一つに選定されたが、今度はドナー(臓器提供者)が現れなかった。さらに2年以上が経過した。

 2000年3月28日未明、臓器提供の連絡が入った。29日夜、藤村が執刀し、歴史的な肺の国内初手術を終える。40年近い研究の蓄積を実践で生かすことができたのは、定年退官のわずか2日前だった。

 後を継いだ近藤は研究と実践の日々。肺移植を待つ患者は東北大だけで50人以上もいる。「本人の臓器提供の意思を的確に生かすシステムづくりが必要。もっと移植の数を増やさなければ…」と明日を見つめる。(敬称略)


◎脳死肺移植 1963年、米国で初めて行われた。80年代以降は欧米で盛んに実施。日本では2000年に実施施設に選定された東北大、大阪大などに加え、06年には千葉大などが追加され、現在8施設で移植手術が行われている。昨年末までの移植例は計30件。移植希望の127人(今年1月4日現在)が日本臓器移植ネットワークに登録し、待機している。

(2007年2月10日)




 
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