<ウジエスーパー>「食」は命 商売の原点

東日本大震災は住民への食料供給網を切り裂いた。(左上から時計回りに)食料を求め客が列をなすウジエスーパーと、店舗に向かう人々、商品が崩れた店内、津波で冠水した店舗前のコラージュ

 東北の日常が断絶したあの時。被災地の企業はどう動いたのか。自ら被災しながらも、地域や住民に尽くした企業市民の姿を追う。

◎トモノミクス 被災地と企業[4]第1部 衝動(1)きづく

 東日本大震災から一夜明けた朝も、冷え込みは厳しかった。2011年3月12日午前8時。仙台市太白区のウジエスーパー袋原店で主婦ら十数人が不安げに店の様子をうかがっていた。
 「今日はお店を開けないんですか?」
 家族の食料を確保しようと皆、必死だった。客の数は瞬く間に増えていった。
 店内は商品が散乱したままで、被災した従業員もいた。客にどこまで対応できるか。葛藤を胸に、当時の店長高橋弘さん(54)は決断した。
 「店を開けるしかない」
 電話が通じず、本社には相談しなかった。店先にワゴン5台を並べ、菓子や果物、缶詰を積めるだけ積み上げた。価格は端数を切り捨てた。客の数は500人に膨らんだ。
 翌日以降も行列は続いた。袋原店では幸い、ガスや水道が使えた。従業員らは数日後、店内の食材をかき集め、駐車場で豚汁を作って客に振る舞い始めた。
 ウジエスーパーは登米市に本社を置き、宮城県内に29店舗を展開する。氏家良典社長(67)は社員に「わが社の存在意義は食を通じた社会貢献だ」と繰り返してきた。過酷な現実を前に、トップの思いが現場の決断と自発的な行動を促した。
 本社も慌ただしく動いた。
 震災から2日後、氏家社長は布施孝尚市長(55)の直談判を受けた。
 「粉ミルクがない。乳幼児の命に関わる。何とかならないか」
 市内の避難所には地震のショックで母乳が出なくなった母親がいた。救援物資の粉ミルクはまだ来ない。
 氏家社長は取引先に連絡を取った。全国の中堅・中小スーパーマーケットが加盟する協業組織CGCグループを通じ、粉ミルクのメーカーに話をつけた。
 常務の吉田芳弘さん(58)は翌朝、運転手と8トントラックで東京に向かった。不眠不休で片道400キロ以上。粉ミルクを待つ赤ちゃんの泣き声が耳の奥で聞こえたような気がした。
 15日、粉ミルク4700個を登米市内に届け、近隣自治体にも配られた。流通業のネットワークと機動力が、自治体の穴を埋めた。
 震災の津波で、南三陸町志津川の店舗が流された。しかし、ほとんどの店長が翌日から店を開け、「食」のライフラインを守った。
 氏家社長は語る。「スーパーはいざとなったら人の命を守る仕事なんだ。震災で改めて気付かされた」
 困難な状況に陥っても商売を続け、地域を支える。消費者のために。商売の原点にたどり着いた先に、災後のCSR(企業の社会的責任)があった。
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 企業の社会的責任(CSR)。21世紀、世界の企業に浸透し始めた概念だ。東日本大震災後、東北の被災地には無数の企業が足を踏み入れ、試行錯誤を重ねた。艱難(かんなん)の地へ、生活の糧を、癒やしを、希望を。企業を突き動かした衝動は何だったのだろう。あれから間もなく6年。CSRを足掛かりに、あの日に返って経済社会を展望する。見えてくる明日を、私たちは「トモノミクス」と呼ぶ。


2017年01月08日日曜日


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