<阿部伊組>道つなぐ それが使命

震災直後、被災地の建設業者はがれきをかき分け、命の道を切り開いた。(左上から時計回りに)阿部伊組の車庫、がれき処理に当たる重機、被災した道路、仮の橋を架ける作業のコラージュ

 東北の日常が断絶したあの時。被災地の企業はどう動いたのか。自ら被災しながらも、地域や住民に尽くした企業市民の姿を追う。

◎トモノミクス 被災地と企業[5]第1部 衝動(2)きりひらく

 1台のパワーショベルの音だけが、静まり返った非業の地に響いていた。2011年3月12日午後、宮城県南三陸町歌津地区。
 「足元から取り掛かる。一刻も早く道を切り開く」
 地元の建設業「阿部伊組」の阿部隆社長(56)は黙々と重機を操った。
 仕事先の岩手県藤沢町(現一関市)で被災した。たどり着いたのは翌日。うつむいている時間はない。高台に残ったパワーショベルに乗り込んだ。1923年創業の3代目は、地域に根差す事業主として、一人の住民として動いた。
 けが人を救う。物資を運ぶ。情報を届ける。道路は地域の生命線だった。流木や電柱を右に左にどけた。遺体もあった。手を合わせ、突き進んだ。
 社屋は起伏の続く歌津地区の国道45号沿いにある。津波は低い場所にある駐車場まで達した。重機の多くは被災したが、社員の無事だけは確認できた。

 阿部社長ががれきと格闘していた同じ頃、連絡が取れなかった土木部長小野寺正さん(49)ら社員が、国道45号で数台の重機を動かしていた。1日で約2キロの区間を通した。
 「住民は撤去したくても限界がある。われわれには重機がある。人員もいる」。小野寺さんは生命線を守る使命感に燃えた。
 孤立地区への道を開き、崩落した橋の代わりに仮設の道を築いた。全て無償の「公共事業」だった。
 被災した東北各地で、建設業者は大小を問わず、命の道を造るために働いた。東北自動車道や国道4号から被災地へ横軸を通す国土交通省の「くしの歯作戦」も担った。
 南三陸町の建設業者は11年3月19日以降、行政と契約を結び、本業として復旧や復興を支えた。震災はインフラを造り、守る建設業の社会的な使命を強烈に自覚させた。

 長く冬の時代にあった業界は復興特需に沸いた。阿部伊組の売上高は震災前の20倍に膨らんだ。だが、阿部社長はもっと厳しい冬が来ると覚悟する。
 南三陸町の人口は震災前から3割減った。高齢化率は33%。建設業者にも、町にも苦境が待ち受ける。
 苦い思い出を心に刻む。父から社長を引き継いだ2000年。公共事業削減の荒波の中、リストラを断行した。会社の生き残りのため、不可避な選択だった。
 だからこそ思う。雇用を守ること、働き口をつくることが会社の役目だ、と。会社を持続させるため、介護用品のレンタルや再生エネルギーに挑み始めた。
 「人を雇う会社なしに、町は元気にならない」
 大災害で目覚めた企業の本能。私益と公益の二分論にどれほどの意味があるのか。企業と地域が手を携え、切り開く道がまだある。
          ◇         ◇         ◇
 企業の社会的責任(CSR)。21世紀、世界の企業に浸透し始めた概念だ。東日本大震災後、東北の被災地には無数の企業が足を踏み入れ、試行錯誤を重ねた。艱難(かんなん)の地へ、生活の糧を、癒やしを、希望を。企業を突き動かした衝動は何だったのだろう。あれから間もなく6年。CSRを足掛かりに、あの日に返って経済社会を展望する。見えてくる明日を、私たちは「トモノミクス」と呼ぶ。


2017年01月09日月曜日


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