<止まった刻 検証・大川小事故>第1部 葛藤(3)波頭を目撃 山駆け上がる

 東日本大震災の津波で全校児童108人中、70人が死亡、4人が行方不明となり、児童を保護していた教職員10人が亡くなった宮城県石巻市大川小。戦後最悪の学校管理下の事故を巡る仙台高裁判決が今春にも言い渡される。あの時、大川小で何があったのか−。7年近くたつ今、当時の子どもたちや関係者が重い口を開き始めた。第1部は当事者の証言などから、学校にいた教職員11人中、唯一助かった当時教務主任の男性教諭(56)の「3.11」を追う。(大川小事故取材班)

◎教務主任の3.11

 石巻市大川小の男性教務主任(56)は「せめて一番高い校舎2階に避難場所を探す」として、校舎内に入った。全校児童108人中、74人が津波の犠牲となり、教職員10人が亡くなる惨事を、この時、どこまで予見していただろうか。
 1985年3月に完成した大川小は、屋上がないモダンなデザインが評判だった。実は2階の配膳室にあるメンテナンス用のはしごを使えば屋根に上がれる。天井の扉は閉まっており、鍵は1階の職員室に散乱していた。教務主任は「屋上避難」を諦めた。
 教務主任が校舎内にいるとき、児童らの命運を左右する重大な決断が下される。北上川右岸の堤防道路(三角地帯)への移動だ。三角地帯は学校より5〜6メートル高いが、防災無線が「絶対近づかないで」と繰り返していた堤防だ。
 午後3時30〜35分ごろ、教頭らが「三角地帯へ逃げるから、走らず列を作って行きましょう」と呼び掛けた。区長は「三角地帯に行こう」と主張しており、相談して決めたとみられる。
 当時、校長は不在。教頭に次ぐ立場だった教務主任は重大な決定に関わっていなかったことになる。2016年10月の仙台地裁判決は、1〜2分で行ける裏山に避難させなかった教職員の過失を認める一方、「校舎の見回り」を理由に教務主任だけ免責した。
 校庭に戻ると、児童の列は三角地帯に向け、出発していた。「(上流の)間垣の堤防の一番高い所(三角地帯)に避難する」と住民に教えられ、教務主任は児童の列の最後尾に付いた。
 釜谷交流会館の駐車場を通過する児童の列を目撃した永沼輝昭さん(77)は「子どもたちは急ぐでもなく歩いて行った。4〜5メートル後を釜谷の女性が子どもたちに声を掛けながら付いていった」と話す。
 教務主任は事故検証委員会に津波襲来時の様子をこう語っている。
 「交流会館を過ぎた辺りで、校庭側から強い風が吹き、離陸する飛行機のエンジン音のようなゴーという音が聞こえた。家屋の高さくらいで長面方向から迫る津波が見えた。少し前まで走り、児童らに大声で『こっちだ!こっちだ!』『山だ!山だ!』と声を掛け、自らも山へ駆け上がった」
 一方、「最後尾は女性」という永沼さんの証言を基に、児童遺族の間には「教務主任は校舎見回り中に津波を目撃し、1人で裏山に逃げた」と、Aルート=図表=から登ったという説が今も根強い。
 Aルートは裏山で最も傾斜が緩く、児童がシイタケ栽培の学習で登っていた。遺族が「ここに避難させてほしかった」と訴えるルートでもある。
 当時の児童は、助かった同級生から「(津波襲来時)教務主任が『山だ』と叫んでいたと聞いた」と取材に答えた。Aルートに向かう途中、津波にのまれた当時中学1年の男性(20)は「Aルートから登ったのは自分一人。コンクリートたたきを横切り、Bルートの避難者と合流するまで誰にも会わなかった」と話す。
 奇跡的に助かった児童2人が打ち上げられた斜面を仮にDルートとすれば、教務主任と3年の男子児童は、この急斜面を駆け上がった可能性が高い。


2018年01月14日日曜日


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