<止まった刻 検証・大川小事故>第2部 激震(4)裏山に避難 2日前も協議

長女の書き取りノートを見詰める狩野さん。震災前日、娘が最後に練習した「津波」の二文字と、泥の跡が残る

マグニチュード(M)9.0の国内観測史上最大を記録した東日本大震災。巨大津波が河口から約3.7キロ離れた石巻市大川小を襲うまで約50分あった。児童74人と教職員10人の命が失われるまで何があったのか−。第2部は当時の児童や保護者らの証言を基に、3月11日午後2時46分の地震発生から3時10分ごろまでの初期対応を検証する。(大川小事故取材班)

◎14:46〜15:10

 東日本大震災の発生直後、石巻市大川小の児童約100人は校庭で待機していた。同じ光景は2日前の3月9日にもあった。
 午前11時45分、三陸沖を震源とする地震が発生し、宮城県に高さ0.5メートルの津波注意報が発令された。校庭での待機を解いた後、職員室では「津波」が話題に上った。
 「万が一、大川小まで津波が来たらどうしようか」
 当時の校長柏葉照幸氏が男性教頭=当時(52)=と男性教務主任(56)に話し掛けた。
 「竹やぶの所から(裏山に)登って逃げるほかないかな。でも足元が悪いし、急だから、なかなか避難には使えないかもしれない」
 「やはり階段が必要になる。学校職員だけでは造れない。PTAの方に力を借りたらどうかな」

 大川小の当時の危機管理マニュアルは、津波を想定した具体的な避難場所を指定していなかった。校庭からどこに逃げるか−。学校のトップ3による話し合いは結論が出ず、職員会議も開かれなかった。
 避難先に裏山を挙げ、3人が協議したのは一度だけではない。(1)チリ地震で大津波警報が出た2010年2月(2)11年6月の防災訓練に向けた打ち合わせをした同年2月−と、少なくとも3回はあったとされる。
 柏葉氏は大川小事故を巡る訴訟で、三者協議について「万が一(津波が)来た時の場合の話で、来ると想定はしていなかった。『万が一』は言葉の中での話」と釈明した。
 3月9日の地震発生から40分後、石巻市鮎川では48センチの津波を観測した。
 大川小近くに住んでいた男性は沖に船を出した。「結局(被害は)何もなく、肩すかし。人生ずっとそう『教育』されてきた。津波の予測が出ても、オオカミ少年のようなもの」と受け止めていた。
 「この時、2メートルぐらい来れば良かった。来れば良かった…」。震災当日、大川小で待機中に亡くなったスクールバス運転手の元同僚の男性は繰り返す。
 「もっと大きな宮城県沖地震が来るかもしれないからね。来たらすぐ山に逃げなさいよ」。3年の男子児童=当時(9)=を亡くした祖母(68)は9日午後、帰宅した孫にこう言い聞かせた。
 「学校の裏山に登れる所があるよ」。孫がこう話した裏山に震災当日、登ることはなかった。祖母は「そこに逃げてほしかった」と悔やむ。

 2年の長女美咲さん=当時(8)=の母狩野正子さん(45)は震災1週間後、北上川の堤防道路付近で娘のランドセルを見つけた。泥まみれの「書き取りノート」が入っていた。
 担任の男性教諭=当時(55)=は毎日、漢字を含む五つの言葉を宿題に出した。震災の前日、教諭が出した漢字二文字は本来、3年生と中学校で習う。
 海に面した宮城県南三陸町から通う教諭が子どもたちに一日でも早く教えたかった漢字とは何か。
 「津波 津波 津波…」
 美咲さんが覚えようとした最後の言葉になった。


2018年01月26日金曜日


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