<止まった刻 検証・大川小事故>第3部 迷い(1)バス運転手 待機むなしく

スクールバスは児童を乗せて走りだすことはなかった。あの日の記憶が刻まれた校舎を、今も多くのバスが訪れる=2日、石巻市釜谷の大川小

 東日本大震災による津波で、児童74人と教職員10人が犠牲になった宮城県石巻市大川小。巨大津波の襲来が刻一刻と迫る中、教職員と児童は校庭にとどまり続けた。高台への避難をためらわせた「迷い」とは何だったのか−。第3部は当時の児童や保護者らの証言を基に、3月11日午後3時10分ごろから同25分ごろまでの状況を再現、検証する。(大川小事故取材班)

◎15:10〜15:25

 「バス、来なければいいな」
 午後3時10分、沿岸にある石巻市長面(ながつら)の自宅を車で出た鈴木新一さん(55)は不安を募らせていた。いつもなら午後3時3分ごろ、大川小のスクールバスが長面に到着する。北上川の水が引いており、津波を心配していた。
 長面方面に向け、午後2時58分に大川小を出発するはずだったバスは、学校前の県道で待機していた。定員は46人。北上川沿い東西約11キロの学区を沿岸と内陸の2路線でカバーし、全校児童108人の半数超が利用していた。
 運転手の三浦勝敏さん=当時(63)=は当日、代理で大川小に来ていた。笑顔を絶やさない温厚な人柄と堅実な仕事ぶりが評判のベテランドライバーだ。
 長面の自宅に向かっていた保護者は、学校周辺で三浦さんと交わした短い会話を覚えている。「子どもは(バスで)帰してくれるの?」「待機だね。親の判断で(引き取り)した方がいいよ」

 大川小の危機管理マニュアルは、バスによる登下校中に津波が発生した場合、「児童は運転手の指示に従う」と定めていた。地震は下校直前。当時の校長柏葉照幸氏は大川小事故を巡る訴訟で「津波が来ると分かれば、向こう(沿岸)まで行かないで引き返すのが当然だと思う」と述べたが、具体的なバスの運用方法は議論していなかった。
 三浦さんの同僚だった小出新さん(70)は空のバスを運転中、三浦さんと無線で交信した。「応援さ行っか?」「大丈夫だ」。本社の無線は停電で使えなかったとされるが、バス同士は交信できた。
 カーラジオは大津波警報を伝えていた。小出さんは「津波来っから(児童を)バスさ乗せろ。自分で判断して逃げろ。先生の言うこと聞くな」と叫んだ。約3キロ山側の釜谷峠への避難が念頭にあった。
 三浦さんは別の男性同僚(69)との交信で「学校の指示が出ないから、勝手なことはできない」と話していた。統計には含まれていないが、亡くなった三浦さんも学校管理下だったと言える。

 午後3時すぎ、幼稚園の送迎バスが大川小に立ち寄った。尾崎(おのさき)に通じる橋が段差で通行できないという情報を伝えるためだ。尾崎で降ろすはずの園児3人を乗せたまま、内陸の園に戻る途中だった。
 男性運転手(56)は、バスと学校の間を行き来する三浦さんを見掛け、「尾崎には行けないよ。逃げた方がいいんじゃないか」とアドバイスしたが、「自分だけ動くわけにはいかない」と答えたという。
 男性は校庭に走り、教職員と顔見知りの保護者に橋の状況を伝えた。児童は慌てる様子もなく、校庭で座っていた。きょうだいを迎えに来たのか、地震前に降ろした園児が母親に手を引かれて校庭にいた。
 男性は「海から離れよう」と急いでいたが、釜谷地区は普段と変わらない様子に見えたという。ただ、幼稚園バスの女性添乗員(56)は「川の様子が分からず、怖い」と感じていた。
 男性は「結果的にバスが2台あった。あの時『逃げろ』って言っていれば…」と今も悔やむ。

[大川小の津波事故]2011年3月11日午後2時46分、宮城県沖で起きたマグニチュード(M)9.0の東北地方太平洋沖地震による津波で、石巻市大川小(児童108人)の児童70人が死亡し、4人が今も行方不明。学校にいた教職員11人のうち、男性教務主任を除く10人も犠牲となった。当時校長は休暇で不在。学校は北上川河口から約3.7キロ離れ、市の津波ハザードマップで浸水予想区域外だった。地震発生から約50分後に第1波が到達し、最高水位は高さ約8.7メートルに達した。学校管理下で戦後最悪の事故とされる。


2018年02月09日金曜日


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