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<祈りと震災>(49)書き手の私 死を経験

[くまがい・たつや] 1958年仙台市生まれ。気仙沼市の中学校教諭などを経て、2000年「漂泊の牙」で新田次郎文学賞、04年「邂逅(かいこう)の森」で直木賞、山本周五郎賞をダブル受賞。仙台市青葉区在住。

◎作家からの伝言(下)熊谷達也さん/言葉紡ぐ難しさ直面

 明日も今日と変わりなく続くはずだった日常が、あの日、いともたやすく分断された。
 地震と津波という、それ自身には何の悪意もない自然の身震いが、私たちをあの世の者とこの世の者に、あっけなく引き裂いた。あの日以来、この世に肉体は残っていても、生きながら死んでいる者、あるいは、死につつも生き永らえている者、そんな人々が私たちの隣人として当たり前に存在するようになった。
 実は私自身もその一人だったのだと、東日本大震災から4年以上も経過した今、ようやくにして気付いた。気付いてはいたが目を背けていたのかもしれない。ものを飲んで食って、眠って目覚めてまた飲み食いしてという、生き物としての私は、幸いにもあの震災によって特に傷つくことなく済んだ。しかしおそらく、いや、間違いなく、小説を書く者としての私は、あの時一度死んでいる。
 これまで誰にも話したり何かに書いたりしたことはないのだが、震災後、ある時期まで、異様なまでに筆の速度が速くなった。確かに異常とも言えるレベルで、自分でも不可解でならなかった。そうして、震災前からスタートしていた連載小説をいくつか書き終えて本にした。
 同時に、新たな作品はもう書けないだろうと思っていた。あの現実を前にして、フィクションとしての言葉を新たに紡ぎ始めるのは不可能だ。実際、震災前からの連載を継続しながらも、小説が全く読めなくなっていた。小説を読めない者が小説を書いているという自己矛盾の中にいた。小説だけではなかった。活字そのものが読めなくなった。
 だから、毎日届く新聞は、一行も目を通さず保管用の段ボール箱に溜(た)まり続けた。外からの情報は、しばらくの間テレビだけで得ていた。当時の自分をあらためて振り返ってみて分かった。どうやら、あの異常なまでの筆の速さは、小説家として死にゆく私の、断末魔の痙攣(けいれん)だったようだ。
 ところが今の私は、自分の予想を裏切って、新たな作品を書き始めている。だが、今度は異様なまでに筆の速度が遅い。一つの言葉を選ぶのに、半日近くかかることもある。が、それは当然のことなのだと今は観念している。小説の書き手としての私は、おそらくいまだに半分死んだままだ。この世にありつつも、夥(おびただ)しい死者とともに生きている。原稿に向き合うたびにこちらの世界とあちらの世界を行き来しなければならないのだから、困難な行為になるのは当然だ。
 この地で小説を書く者が、彷徨(さまよ)い続ける死者の魂を置き去りにして安易に生き返ることは許されていないのだろう。


関連ページ: 宮城 社会 挽歌の宛先

2015年06月03日水曜日

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