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<大熊じじいの夢>まさかの爆発 不眠不休

大熊町内の水路のごみを取り除く現地連絡事務所の職員たち。すぐに葉や木の枝が詰まるため、点検は欠かさない

◎福島・現地職員の原発事故/(2)乾いた音

<着の身着のまま>
 パキーン。誰もいなくなった町に乾いた音が響き渡った。
 2011年3月12日午後3時半すぎ、福島県大熊町役場の周辺にいた当時の町総務課長鈴木久友さん(63)と町建設課長だった横山常光さん(62)は、それが東に約4キロ離れた東京電力福島第1原発の爆発音だと直感した。「大変なことになった」。横山さんはそう思った。
 2人を含めた8人の職員が最後まで町に残り、役場を閉め、逃げようとしていた時に爆発は起きた。
 午前中に町民のバスを先導した、当時、町産業課長の岡田範常さん(62)は田村市都路に避難したが、原発が爆発したため、夜には同市船引に逃げることを余儀なくされた。「原発は分厚い5枚の壁に覆われ、昔は飛行機が落ちても大丈夫とまで言われていた。それが爆発するなんてとても信じられなかった」と振り返る。
 前日の大地震の際には、原発に対する危機感はなかった。「原発は安全に止まったという情報があったので大丈夫だと思った」と鈴木さん。津波の行方不明者、地震で壊れた場所の情報収集に追われていた。
 事態が急変したのは12日午前6時ごろ。政府から「避難してほしい」と指示された。政府が手配したバス70台が到着し、町民が慌ただしく乗り込んだ。
 貴重品も持たず、着の身着のままで避難した人が大部分だった。ペットや家畜は置き去りにされた。誰もが数日で戻ることができると思っていたが、再び戻ることはなかった。

<過酷な避難糧に>
 震災直後、高齢者ら約40人が町に残った。鈴木さんらは自衛隊と救出に当たった。「ここで死ぬ」と説得に応じない人もいた。町に1週間残った人は何度シャワーを浴びても放射線量が落ちなかった。
 避難所では町民の世話に追われた。「病院に行きたい」「家族の居場所が分からない」「いつ帰れるのか」。相談が次から次へと寄せられた。情報は少なく、できることは限られていた。いら立ちを募らせた町民に胸ぐらをつかまれることもあった。
 「目をつぶれば、明日、開けることができるだろうかと不安だった」と鈴木さん。岡田さんは「夢を見る暇もなかった」と語る。横山さんは肺炎を患った。
 3月23日、避難先の田村市で町議会が開かれた。場所はバスの中だった。議会は会津若松市への避難を了承し、町は4月5日、同市の旧校舎に出張所を開所した。小中学校の開校、仮設住宅の建設など、町職員は対応に追われた。
 それから4年。鈴木さん、横山さん、岡田さんは町現地連絡事務所で働く。「寝ないで働いた当時に比べれば、現在の業務は大したことはない」と横山さん。過酷な避難生活が今の仕事の糧になっている。


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2015年07月02日木曜日

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