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<日航機墜落と大震災>命つなぐためフル回転

陸上自衛隊と地元の建設会社が協力して、津波によるがれきを重機で除去し、道路を開通させる作業=2011年3月12日午前2時ごろ、名取市小塚原の仙台東部道路名取インター付近(太田さん提供)

◎元自衛官が見たもの(下)名取・閖上の現場

<生存者を捜索>
 「シュー、シュー」
 津波で流された住宅のプロパンボンベからガスが漏れる。大津波警報が出ている。「誰かー、いませんかー」。冷たい海水に膝まで漬かりながら、孤立者がいないかどうか一軒一軒家々を確かめた。
 2011年3月12日早朝、宮城県名取市閖上。同市サイクルスポーツセンター長だった太田幸男さん(51)は、東日本大震災の大津波に襲われた街で、無線機片手に無我夢中で生存者を捜していた。
 「助かる命を消してはならない。一人でも多くの命を救わなければ…」
 1985年8月12日の日航ジャンボ機墜落事故。520人の命が散った群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」で捜索に当たった太田さんは、約26年前の蒸し暑い山中の出来事を思い出した。
 太田さんはあの夏、一人の命も救えなかった。ずっと悔やんでいた。
 市サイクルスポーツセンターは閖上海岸にあり、太田さんは施設を運営する指定管理者の民間会社に勤務。地震後すぐ、同僚らと内陸に避難し命拾いした。
 18歳から約10年間いた航空自衛隊では主に、資機材や物品の管理、保管、発送などを行う兵たんを担った。人命救助や支援物資輸送に道路の通行確保が鍵となることは、訓練と実践を重ねた経験から知っていた。
 名取市沿岸部では、仙台空港や公共施設、学校、民家などに数千人が孤立。閖上地区には自衛隊や他地区の消防隊が救援に駆け付けたが、津波によるがれきが道路をふさぎ、生存者の救助ができない状態だった。
 「彼らは救助のプロだが、地元の地理は知らない。人手がない中、水先案内できるのは私しかいない」

<連絡役務める>
 市職員と人脈があった太田さんは市にボランティアを申し出て、アマチュア無線機を借りて現場に赴き、自衛隊と市災害対策本部との連絡役を務めた。仙台東部道路名取インターチェンジを、地元建設会社の力を借りて震災翌日の未明に開通させる大仕事にも参加した。
 道路はその後、救助活動や物資輸送の大動脈となり市民の命をつないだ。太田さんはそれから約2カ月、自宅に帰ることなく市役所に泊まり込み、市職員と共に被災者救援に奔走した。

<心の葛藤氷解>
 御巣鷹では520人が犠牲に、名取市内では911人が津波で亡くなった。航空機事故と大震災。太田さんは二つの惨事に遭遇した自らの運命を恨めしく思いながら、この4年余り、心の葛藤を続けていた。
 7月12日、御巣鷹の尾根。山腹の小屋にノートがあり、慰霊登山に訪れた人々がさまざまな思いを書き残していた。
 慰霊を終えた太田さんはこうつぶやいた。「御巣鷹に来て、犠牲者の遺族を支えてきた人がたくさんいたことを初めて知った。私は津波で助かった閖上の人たちを20年、30年と見守る。それが私の使命と感じた」
 太田さんの迷いが氷解した。


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2015年08月05日水曜日

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