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<もう一度会いたい>なぜ川に向かったか

震災前の大川小の衛星写真。先生は川に向かって児童を引率した。津波襲来で引き返した
今野大輔君

◎(11)遺族の疑念晴れず

 「顔がふぐれ、唇を青ぐはらした子どもの顔、見だごどあんのが」
 初回は市教委に対する遺族の怒号で対話にならなかった。
 2011年4月9日。宮城県石巻市大川小第1回保護者説明会。震災から30日目。
 津波で児童74人、教職員10人が死亡・行方不明になった。今野浩行さん(53)の長男で6年の大輔君=当時(12)=も命を落とす。
 説明会に校長がいた。
 震災の日は娘の卒業式で午後に休みを取って不在だった。
 学校の被災現場に戻ったのは6日後だ。
 遺族は震災翌日から現場に入って捜索している。水の入り込んだ長靴をガッポガッポさせながら。
 責任者の緩慢な対応は遺族には「他人の子としか思っていない」と映った。

<打ち切りに>
 第2回説明会。
 亀山紘市長が犠牲者の多さに「自然災害における宿命」と発言した。
 浩行さんは耳を疑う。
 「無神経」
 遺族席から声が上がる。
 市教委は説明会を1時間で打ち切り、遺族の制止を振り切って退出した。「今後の開催予定はない」と一方的に終結宣言する。
 地震の時、学校は「帰りの会」をしていた。
 「起立」「注目」「さようなら」の号令中に揺れだす。「さようなら」が言えなかった。
 児童は校庭に集められた。親が引き取りに来た子を除く78人が残る。先生は教頭以下11人で対応した。
 防災無線が「大津波警報発令。海岸、河川堤防に近づかないで」と警告する。ラジオが「予想津波高6〜10メートル」と警戒を促す。広報車が避難を呼び掛ける。
 校庭の集団は動かない。
 学校は北上川の脇にある。津波が川をさかのぼろうとしていた。
 校庭の裏に山がある。傾斜が緩く、低学年生でも登れる。体験学習のシイタケ栽培の場で、足を踏み入れることに抵抗感はない。
 47分経過。集団が動きだす。津波襲来まで4分を切っていた。
 川に向かった。
 山ではない。
 先生は「三角地帯」を目指して引率した。橋のたもとにある三角形の緩衝帯だ。校庭より高いが、差は5メートルにすぎない。
 津波が堤防を越えた。
 人の列をのみ込む。
 児童4人と教師1人。生存者はこれだけだった。
 真相を知りたい。
 約50分間、なぜ校庭にとどまったのか。
 なぜ川に向かったのか。

<たった1分>
 「大ちゃんは先生に『山さ逃げよう』と訴えていた」
 浩行さんは生き残った児童から直接聞いている。
 息子のアピールはあだ花に終わった。
 この児童は市教委の聞き取りにも同じ証言をした。
 市教委の示した聴取記録にその記述はなかった。
 下書きのメモは廃棄されていた。記録の正確性を確かめる手段を失う。
 唯一の生存教師は説明会で山に逃げなかった理由を「木が倒れて危険だった」と述べた。実際は倒木はなく、事実と食い違う。
 説明会は遺族の求めで再開された。市教委は津波の予見可能性を否定し、議論は平行線が続く。
 翌年8月、市教委は現場検証を実施した。避難経路が初めて特定される。
 距離180メートル。
 時間にして1分。
 50分かけてそれっぽっちしか避難できなかった。
 それを市教委が認めるまで1年5カ月かかった。


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2015年12月15日火曜日

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