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<私の復興>野蒜思い音色さえる

かつて自宅があった場所の近くで、貞山運河を背に龍笛を奏でる山下さん=4日、東松島市野蒜

◎震災4年10カ月〜大崎市・龍笛奏者 山下進さん

 元日の未明、車を走らせた。宮城県大崎市松山の自宅から、東日本大震災の発生まで10年余りを暮らした宮城県東松島市野蒜へ。浜に着いたのは午前6時40ごろ。初日の出にようやく間に合った。
 午前10時すぎ、自身のブログに思いをつづった。
 <思えば、松山に引っ越してからの厄年期間中は、初日の出を見てなかったんだなあ><野蒜の元旦光景、久々にとても気持ちの良いものでした>
 津波で、貞山運河に面した道沿いにあった野蒜の自宅は流された。東松島での仮設住宅暮らしを経て震災翌年の2012年夏、20キロほど内陸の松山に次の住まいを求めた。親の通院の事情なども考えて判断した。
 震災当時は、野蒜市民センターでまちづくり指導員として働いていた。雅楽で使う横笛「龍笛(りゅうてき)」の奥深さに魅せられたのも、野蒜で暮らした日々の中でだった。
 野蒜のことはいまもずっと思っている。ただ、移転後はあまり野蒜を訪れなくなっていた。
 新しい年の幕開けとともに野蒜に向かったのは、そんな自分にとって一つの節目の時期が来たことを意味しているのかもしれない。

 石巻市雄勝町の海のすぐ近くで生まれ育った。小さいころから津波注意報が出たらすぐ逃げるよう教えられた。津波の怖さに対する意識や警戒感は強かった。
 震災前の2年間を勤務した野蒜市民センターでは、まちづくり協議会で防災・防犯部会の一員となった。直接関わったのは部会の交通班だったが、防災班による津波避難の検討の資料作りも手伝った。
 津波に備える避難場所に関して「おやっ?」と感じたことがある。にもかかわらず問題提起しなかった。「よそ(雄勝)から来た自分が『それちょっとおかしいのでは?』とか口に出せなかった」
 野蒜は津波で壊滅的な被害を受け、多数の犠牲者が出た。「あのころ感じたことをもし提起できていたら、何かが変わっていたかもしれない」
 だからこそ、いまは違和感などを抱いたら、積極的に口にするように心掛けている。周囲に煙たがられても仕方がない。「言わないことで後悔はしたくない」
 震災発生からすぐに戻った自宅から避難する際、龍笛など笛一式を持ち出した。そのときはとにかく必死だった。「後になって、自分にとっての笛の存在の大きさに気付いた」と言う。

 被災して1カ月ほどしたころ、野蒜市民センターから職員を続けてほしいと頼まれた。考えた末に断った。
 その後も仕事をどうするかなどについて葛藤があったが、笛に専念する道を選んだ。龍笛の演奏活動やしの笛教室の開催を通して身を立て、笛の音色に再生への願いを託す。
 「震災後は、それ以前と比べても感謝と祈りの気持ちを演奏に乗せられるようになった気がする。縁を大切にして演奏を続けていきたい」。野蒜の貞山運河の橋に立ち、野蒜との縁をあらためて思いながら龍笛を奏でた。(松田博英)

●私の復興度・・・5割方
 ご縁があってつながった方々と心を通い合わせ、良いなと思ったものに共感し同じ時を共有できることが私にとっての幸せ。震災後もお互いに高め合い、長く続くような出会いがあった。そうした意味で復興度は半分くらいだろうか。残る半分は、随分とお世話になったものの震災後に離れてしまっている野蒜とのご縁。再び取り戻していけたらありがたいと思っている。


2016年01月12日火曜日

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