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<アーカイブ大震災>搬送を阻む放射線

原発から10キロ圏内で、防護服を着て行方不明者を捜す福島県警の捜索隊員ら=2011年4月17日、福島県浪江町請戸(県警提供)

 東京電力福島第1原発が立地する福島県大熊町で、震災の死者とみられる男性を収容しようとした県警が遺体の放射線量が高いため搬送を断念したと、2011年3月29日に報じた。遺体は4月1日に収容された。第1原発20キロ圏内で行方不明者の本格捜索が始まったのは、震災から約1カ月後。この間、救出の道は閉ざされ、数百もの遺体が置き去りにされていた。

◎その時 何が(7)残された遺体(福島・大熊町)

 大熊町内、福島第1原発の南5〜6キロにある作業所の敷地内で、成人男性の遺体が見つかったのは3月27日だった。
 「亡くなっている人がいる」。通報を受け、福島県警の機動隊員や検視官ら15人が現場に向かった。放射能を警戒し、放射線計測班も同行した。
 遺体の表面の放射線量を計測すると、水で洗い流す「除染」が必要な10万cpm(cpmは放射線量の単位)を大幅に超えていた。
 第1原発1号機の爆発が起きた3月12日、原発から20キロ圏に避難指示が出たのを受け、県警は捜索や遺体の搬送を中断していた。圏内に入るのは緊急性が高い通報があった場合だけだ。
 汚染された遺体をどう扱うべきか、その基準さえなかった。
 機動隊員らは遺体を遺体袋に入れた上で、建物内に移し、撤収するしかなかった。

 男性の遺体収容を断念した後、県警は厚生労働省と対応を協議。(1)業務で放射線を扱う人の許容限度を参考に、捜索が可能かどうかを判断する(2)遺体表面の放射線量が10万cpmを超えた場合は、現場で除染してから搬送する―ことを決めた。
 5日後の4月1日、機動隊員や検視官、放射線計測班らが再び大熊町の現場に入った。外気から遮断して安置していたため、遺体の放射線量は下がり、除染の必要はなくなっていた。南相馬市に搬送。外傷はなく、病死と診断された。
 県警や警視庁が、南相馬市の南部や楢葉町など原発10〜20キロ圏で、本格的な捜索を始めたのは4月7日のことだ。大熊町や浪江町請戸など10キロ圏内の捜索の開始は14日まで遅れた。
 二本松署地域課の吉津敬介警部補(35)は、4月中旬から請戸での捜索に加わった。防護服にマスク。「動きを制限され、手でがれきを一つ一つどかした。放射線の数値も気になり、神経をすり減らしながらの過酷な作業だった」と振り返る。
 原発周辺を中心に、福島県では約10万人が避難生活を強いられた。行方不明の家族を捜す間もなく、古里を離れざるを得なかった人たちは、悔しさ、もどかしさを募らせながら捜索活動の開始を待つしかなかった。
 姉が行方不明になった浪江町請戸の女性(56)は「捜索に入るのが遅過ぎた」と語る。避難先の二本松市から貴重品を取りに自宅へ戻った3月下旬、持参した線量計の数値は3時間で1マイクロシーベルトにも満たなかった。
 「捜してあげればよかったという後悔の思いが消えない。誰のせいでもないのは分かっているが、何かに怒りをぶつけたくなる」

 20キロ圏にある南相馬市原町区の新川芳秀さん(61)は今月13日、避難先でDNAの生体資料を県警に提供した。
 津波にのまれた父親と兄の遺体は確認されたが、母親がまだ見つからない。県警によるDNA鑑定に望みを託す。
 「危険を顧みず捜索に当たってくれて感謝している」と、新川さんは手を合わせる。
 浪江町請戸で捜索した吉津警部補は言う。
 「もし、震災直後に捜索できていれば、助けられた命もあったのかと思うと、胸が痛くなる」
 県警によると19日現在、原発20キロ圏内で見つかった死者は365人。まだ約380人が行方不明のままだ。(橋本俊)=2011年5月20日河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 5年の節目に際し、一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2016年01月26日火曜日

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