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<アーカイブ大震災>命運分けた停車位置

津波に押し流された上り列車=2011年3月13日、東松島市野蒜

 震災の直前、JR仙石線野蒜駅(宮城県東松島市)を同じ時刻に発車した2本の列車があった。ともに4両編成の仙台行き上り普通列車と石巻行き下り快速列車。海沿いを走行中に地震に襲われ、2011年3月12日の朝刊は「野蒜駅付近を走行していた列車と連絡が取れないとの情報がある」と伝えた。乗客の明暗が分かれた。

◎その時 何が(8)消えた列車(東松島)

 3月11日午後2時46分。2本の列車は時刻表通り、野蒜駅からそれぞれの目的地へ出発した。窓の外は雪が舞っていた。
 仙台に向かう上り列車の乗客は、会社員や小学生ら約50人。駅を出てすぐ、携帯電話が一斉に鳴りだした。「宮城沖で地震発生」。緊急地震速報だった。ほぼ同時に車両が揺れ始めた。
 あちこちで悲鳴が上がった。石巻専修大3年菊谷尚志さん(20)は思わず手すりをつかんだ。「大人2人に揺さぶられているようだった」
 車両が緊急停止した場所は駅から約700メートル。近くには東松島市指定避難所の野蒜小があった。
 「乗客を野蒜小に避難させてください」。仙台のJRの指令担当者から無線指示を受けた乗務員の案内で、乗客は約300メートルの道のりを歩いた。誘導された体育館には、既に100人以上が避難していた。

 午後3時50分ごろ。「津波が来たー! 2階に上がれー!」。入り口近くにいた菊谷さんは、男性の叫び声を聞いた。人が殺到した近くの階段を避け、ステージ奥の階段へ走った。そこも行列だった。順番を待つ間に水は足首まで達した。
 現実感がなかった。「映画みたいだ」と思った瞬間、近くの窓ガラスが次々に割れ、泥水が一気に流れ込んできた。後ろにいた女の子やお年寄りが声もなく流されたが、なすすべはなかった。必死で2階に上った。
 JR東日本仙台支社によると、少なくとも乗客1人が体育館で亡くなったとみられる。混乱の中、安否を確認できた人数は約20人。2カ月が過ぎた今も、体育館に避難した乗客数すら「不明」のままだ。
 津波は線路上の上り列車も押し流し、車内は1メートル以上浸水した。菊谷さんは「もし車内に残っていたら、死んでいただろう」と振り返る。

 下り列車は野蒜駅から約600メートル走って緊急停車した。幸運にもそこは十数メートルの高台だった。
 「とどまった方が安全だ」。地元に住む年配の男性客が、乗客を外へ誘導しようとした若い乗務員に助言した。乗客と乗務員約60人は、最も高い位置にある3両目で待機することになった。
 高台は津波の襲来を免れたが、濁流にのまれる建物や車が窓越しに見えた。「上り列車は無事だろうか」。石巻市の和泉徳子さん(51)は、野蒜駅ですれ違った列車の安否が気掛かりだった。
 乗客の男性たちが水に入り、流された家の屋根に乗って漂流していた70代ほどの男性を救出した。震えるお年寄りを座席に横たえ、体をさすって温めた。 「暗くなる前に一口ずつどうぞ」。ある女性客が自分の弁当を周りに勧めた。それを機に和泉さんらほかの乗客も手持ちの総菜や菓子、水を取り出した。自然に分かち合いの輪が生まれた。
 1人だけ、心細そうな男の子がいた。大人がさりげなく見守り、励ました。夜、母親が水をかき分けて車両にやって来た。「みんな自分のことのようにホッとした」と和泉さん。その晩、男の子は母の腕で眠った。
 夜は長く、寒かった。乗客は詰めて座り、互いの体温で暖を取った。
 12日朝。乗客ら全員が車両を脱出、線路を歩いた後、トラックの荷台に揺られ、指定避難所の公民館へ向かった。
 「一人一人ができることをやった。みんなの力で乗り越えられた」。和泉さんは今、そう思っている。(藤田杏奴、野内貴史)=2011年5月21日河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 5年の節目に際し、一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2016年01月27日水曜日

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