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<アーカイブ大震災>混乱極み 情報錯綜

津波に襲われ、黒い荒野となった仙台市若林区荒浜。手前が深沼海水浴場=2011年3月18日

 「仙台市若林区荒浜で200〜300人の遺体が見つかる」。大震災が発生した2011年3月11日の夜、衝撃的なニュースが全国を駆けめぐった。百万都市・仙台の海岸沿いに広がる約900世帯の地区では、多くの住民が犠牲になった。だが当初伝えられた遺体の数は、混乱の中で錯綜(さくそう)した情報の一つだった。

◎その時 何が(9)「遺体200〜300人」(仙台・荒浜)

 「大津波警報が出ている。早く逃げろ」
 県道塩釜亘理線の東側に開けた住宅地。荒浜新1、2丁目の約300世帯でつくる荒浜新町町内会の大橋公雄会長(67)は地震直後、住民に近くの荒浜小に避難するよう自転車で呼び掛けて回った。住民の反応は鈍かったという。
 荒浜は高さ6.2メートルの防潮堤で守られている。高さ2.5メートルの離岸堤も備える。1978年の宮城県沖地震や昨年2月末のチリ大地震津波でも、被害はなかった。
 「荒浜に津波は来ない」。体験からそう信じる住民が少なくなかった。荒浜小に避難した住民の中にも、しばらくして自宅に戻る人が現れた。
 午後3時55分。濁流が猛烈な勢いで町をのみ込んだ。4階建ての校舎には約320人の児童、地元住民が避難。津波の威力はすさまじく、校庭などに残っていた人々は流されたという。
 荒浜南部の福祉施設で働いていた遠藤雅人さん(32)は地震後、利用者、職員計約70人と施設屋上などに避難した。
 「バリバリという音を立てて防潮林の松の木がなぎ倒され、今度はその大木が住宅街を根こそぎ破壊した」

 犠牲者を出したのは、住宅街だけではない。
 県道塩釜亘理線より西の水田地帯では「車を乗り捨てて逃げる人が濁流にのまれた。大勢の人が必死で走っていたが、津波の速さは尋常ではなかった」と遠藤さん。
 複数の生存者によると、大勢の住民が津波の到達直前まで、水田地帯の農道に車を止めて沖を眺めていたという。
 水田付近で事務所の片付けをしていた会社員男性(32)は「住宅街から逃げた住民が車内でラジオを聞いたり、立ち話したりしていた。そのうち津波が押し寄せ、一瞬で辺り一面が水に沈んだ」と話す。
 なぜ、住民はより内陸へと逃げなかったのか。
 荒浜に先祖代々住む大学源七郎さん(69)が説明する。「住宅街の西を通る県道塩釜亘理線まで逃げれば大丈夫、と思ってきた住民がほとんどだった。地区の避難訓練でも、県道を渡ることに力点が置かれてきた」
 仙台市が町内会に配布していた「津波避難マップ」。津波が県道に到達するとは想定されておらず、荒浜の住宅街の中でも県道に近い西部は「津波警戒区域」に設定されていなかった。だが、実際に津波はさらに内陸側の東部道路周辺まで達した。

 「荒浜新1、2丁目で200〜300の遺体との情報」。これは3月11日夜にあった緊急通報の一つだ。大震災発生の直後で、消防、警察にはそれぞれ何千件もの通報が殺到。関係機関による事実確認は混乱の中、難航を極めていたが、その衝撃的な内容は報道関係者の意識を引き付けた。
 情報は一部メディアで「海岸に200人以上の遺体」などと変遷しながら、事実として数日間、発信され続けた。
 仙台市の死者・行方不明者は21日現在、869人。荒浜地区での犠牲者は約180人に上るという。遺体の大半は、県道塩釜亘理線沿いの荒浜新1、2丁目や海岸ではなく、荒浜西部の南長沼周辺や東部を流れる貞山堀で見つかった。(亀山貴裕)=2011年5月22日河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 5年の節目に際し、一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2016年01月28日木曜日

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