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<アーカイブ大震災>園児持ち上げ屋根へ

園児33人が乗った大型バスの車内。窓にはくっきりと津波の水位が残っていた=2011年3月17日、宮城県山元町のふじ幼稚園
「てんごくでおはなししようね」。ふじ幼稚園の献花台の花には、園児が亡くなった友達に書いた手紙が添えられている=2011年5月20日

 宮城県山元町の私立ふじ幼稚園で、園児51人を乗せ、園庭に止まっていた幼稚園バス2台が津波に襲われた。43人が助け出されたが、園児8人と職員1人が死亡した。鳴らない防災無線、津波への警戒心の薄さ…。濁流がなだれ込んだバスの車内では、懸命の脱出劇が繰り広げられた。

◎その時 何が(11)幼稚園バスのんだ濁流(宮城・山元町)

 園によると、2011年3月11日午後3時ごろ、職員らが園児51人を園庭に避難させた。木造2階の園舎は余震で危険と判断した。同15分すぎに雨が降り出し、園児を大型、小型のバス2台に乗せた。
 津波は、そこに突然、押し寄せた。
 園児33人が乗った大型バスは津波に流され、正門の塀にぶつかって止まった。園児18人が乗る小型バスは100メートルほど離れた民家まで流された。
 大型バスには職員5人がいた。濁流は天井近くまでに達し、園児はぷかぷかと浮き沈みし、パニック状態に陥った。
 職員によると、濁流との格闘は壮絶を極めた。
 ドアを開け、職員1人が屋根に上った。他の職員が車内から園児を持ち上げ、23人を屋根に脱出させた。園児1人が流され、職員が泳いで抱きかかえて救出、のぼり棒につかまり水が引くのを待った。
 別の職員は「車内に取り残された子がいないか確認した。もういないよね、いないでね…。祈るような気持ちで水中を探ったら、2人のリュックに手が掛かった」と言う。2人を引っ張り出し、がれきにしがみついた。
 屋根に上った職員は「子どもたちを助けなきゃと必死に引き上げた」と涙で振り返る。救出及ばず、7人が行方不明になった。
 職員2人が乗った小型バス。水を飲み衰弱した園児1人と救出で力尽きた職員中曽順子さん(49)が死亡した。

 大型バスの園児は園舎2階で、小型バスの園児は民家2階で、それぞれ夜を明かす。
 「娘が戻らない」。11日午後8時すぎ、団体職員橋元洋平さん(33)は長女結衣ちゃん(5)を捜し、園を目指した。
 周囲は真っ暗。携帯電話の明かりだけが頼り。がれきを越え、腰まで水に漬かって午後9時ごろ、園舎にたどり着いた。
 「結衣はいますか」。橋元さんは尋ねた。「いません」。職員が首を振る。橋元さんはもう一台の小型バスのことを聞き、望みをつないだ。
 民家にたどり着き、再び尋ねた。「結衣はいますか」「すみません。いません」。返答に橋元さんは泣き崩れた。震えが止まらなかった。
 民家2階には亡くなった園児1人と、重体の園児2人を寝かせた部屋があった。橋元さんはいてついた部屋で2人を温めて看病した。「この子が結衣だったら…」。他人の娘を、わが娘のようにいとおしく感じた。
 結衣ちゃんは数日後、遺体で見つかった。

 今月14日、園児8人の遺族への2回目の報告会が町内で開かれた。
 「なぜうちの娘を助けてくれなかったのか」。一人娘ひな乃ちゃん(5)を亡くした高橋光晴さん(43)は4月の報告会で、園側に怒りをぶつけた。今は違う思いも抱く。
 「先生方だって必死だったはず。情報を収集して津波から避難ができていれば、誰もが悲しい思いをせずに済んだ。それを教訓にしてほしい」
 園によると、近くの町の防災無線は警報が鳴らず、避難を呼び掛ける広報車も来なかったという。職員の1人がラジオで大津波警報を知ったが、全員に伝わらなかった。
 海岸から幼稚園までは約1.5キロ。園は地震や火災の避難訓練は年3、4回行っていたが、津波の避難訓練は一度もしたことがなかったという。
 鈴木信子園長(52)は涙を流し、悔やむ。
 「津波への警戒心が足りなかった。それが最大の過ち。あの子たちのことを一生背負って生きていく」(小島直広)=2011年5月25日河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 5年の節目に際し、一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2016年01月30日土曜日

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