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<飯舘村比曽から問う>共助 どう取り戻す

共同墓地の真ん前に仮々置き場が造成され、汚染土の黒い袋の山がそびえる=1月中旬、福島県飯舘村比曽

◎帰還への道なお遠く(3)復興は地域から

<そびえる汚染土>
 「必ず帰るぞ、この比曽へ」「比曽は一つしかないんだぞ」。2011年3月の福島第1原発事故後、政府から全村避難を指示された福島県飯舘村の比曽で同年5月末、86戸のお別れ会が催された。集会所には誓いの寄せ書きが残された。
 比曽の行政区は翌6月から、放射線量の定点測定を続けてきた。「当初は高い所で毎時16.3マイクロシーベルトもあった。ちゃんと記録して国に下げてもらい、皆で帰るべ、再生するべ、との思いだった」と農業菅野義人さん(63)は振り返る。
 あれから間もなく5年。避難指示解除の期限は来年3月に迫っている。しかし、離散した住民の何人が比曽に戻る意向なのか、互いに分からないままだ。
 昨年のお盆前、共同墓地に男衆60人が集った。行政区が呼び掛けた避難後初の共同の草刈りだった。墓地には住民が手作りした「らんばの森 いっぷく公園」もある。先祖と共に憩う場の前にいま、仮々置き場の汚染土袋の山がそびえる。

<少数では不可能>
 「村に戻ろうという気持ちだけではもう誰も導けない。孫がおり(放射線が心配で)帰れない人、避難先で親の介護に追われている人、それぞれ事情がある」
 菅野さんは昨年暮れ、東北大の講義に招かれ、比曽の現状と自身の模索を学生に語った。写真で紹介したのは避難前の住民活動だ。
 春は用水路の手入れ、夏は川や道の草刈り、秋は神社の祭り、冬は除雪。「都会の人には分からないが、われわれにとって共同体とは、なくては生きられぬ必修科目。代々培った共助の暮らしを原発事故は壊した」
 除染後の農地や用水路、比曽に四つある神社の維持管理を取っても、わずかな帰還者の力では無理だという。「では、戻らない人に『共同作業に集まって』と協力を求められるか。帰還者だけが疲弊して復興があるのか。どんな住民の連携が可能なのか。地区ごとに話し合いを始めなくては」

<自主事業を模索>
 村は復興計画に「復興拠点エリア」整備を掲げる。中心部の深谷地区に道の駅とミニスーパー、交流ホール、イベント広場、花栽培施設、災害公営住宅などを国の交付金で来年3月までに造り、新しい村の顔にふさわしい施設と位置付ける。
 菅野さんは「それだけでは十分でない」と考え、昨年11月、復興を議論する村民有志の会合に飯舘村地域再生プラン案を出した。
 「飯舘という村の個性も強さも地域の力にあった」と、帰還後の共同体再生につながる自主事業を財源(年1000万円を10年間)とともに、各行政区に認めてほしいと提案している。
 共同墓地の公園もかつて村が各行政区に配った予算で、住民の委員会が立案した自主事業の一つだった。「欲しい品が地元になくても、父親は木っ端から船やそり、スキーを作ってくれた。それが『までい』。村が原点に戻るべき時だ」

[メモ]復興庁が昨年3月に公表した飯舘村の住民意向調査(回答は全2973世帯の47.5%)によると、村民の帰還意向は「戻りたい」が29.4%、「戻らない」が26.5%、「まだ判断がつかない」が32.5%。「戻りたい」は60代の4割、50代と70代のそれぞれ約3割を占めるが、20〜40代で1割前後。回答者の大半が福島市など村の近辺に避難しており「村とのつながりを保ちたいと思う」は全体の51.5%だった。


2016年02月06日土曜日


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