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<アーカイブ大震災>車いすに波 容赦なく

津波被災直後の特別養護老人ホーム「慈恵園」。ベッドや棚などが散乱し、電灯から海水がしたたっていた=2011年3月11日午後4時20分ごろ、宮城県南三陸町志津川

 宮城県南三陸町志津川の特別養護老人ホーム「慈恵園」は、志津川の中心部を一望できる高台にある。棟続きの町社会福祉協議会の施設は、津波など災害時の指定避難場所でもあった。南隣のさらに高い場所にある志津川高に高齢者を避難させようとしているさなか、大津波は車いすを押す職員と、まだ入所者らが残っていたホームに襲い掛かった。入所者とショートステイ利用者計67人のうち46人が死亡、2人が行方不明になり、職員も1人が亡くなった。

◎その時 何が(20)高齢者46人が犠牲(宮城・南三陸町)

 2011年3月11日午後3時半、特養ホーム「慈恵園」の駐車場。津波がJR志津川駅そばのスーパーの大看板をゆっくりとなぎ倒すのが見えた。ホームまでの距離は約500メートル。
 「(志津川)高校に行って」「早く逃げて」
 職員たちは押せるだけの車いすを押して走りだした。ホームは標高約15メートルの高台にあり、南隣の志津川高はさらに20メートル以上高い場所にある。
 施設長佐藤喜久子さん(65)も車いすを押して志津川高に急いだが、高校に続く階段手前の坂道で車輪が止まった。押しても押しても進まない。
 家が流されるのが見えた瞬間、車いすとともに津波にのみ込まれた。ホームの裏山の方に押し流された後、渦を巻いた波で施設内に引き戻された。佐藤さんは必死に木材にしがみついた。「もう駄目かもしれない」。そう思った瞬間、すっと水が引き、床に足が着いた。
 津波はホームの天井の下30センチまで達した。気力を振り絞り、施設内で入所者を捜し、数人をベッドに戻した。「すぐ助けに来ますから」。声を掛け、さらに生存者の姿を捜した。
 佐藤さんがひざの出血に気付いたのは、その日の夜遅くだった。

 「誰かいますかー」
 志津川高に利用者1人を避難させた介護士星雅也さん(38)は、第1波が引くと同時にホームに駆け戻った。救出には志津川高の生徒たちも加わった。
 星さんは、ホームの周囲に積み上がった高さ1メートル以上のがれきを乗り越え、2人を運び出した。3人目を捜していた時、悲鳴に似た叫び声が聞こえた。「また(津波が)来たぞー」「早く戻れー」。高校に駆け戻らざるを得なかった。
 志津川高まで連れ出せた高齢者は28人。外は雪。その夜のうちに、寒さなどで8人が息を引き取り、搬送先の病院でも1人が亡くなった。

 高台にあるホームと棟続きの町社協の施設は津波災害の際、避難者の受け入れを担う。敷地内には地震発生直後から、近隣の住民が続々と避難。ホームのスタッフも慌ただしく利用者をホールに集め、毛布や保存食、飲料水の準備を始めていた。
 相談員佐々木博美さん(50)は「一番心配したのは、余震で建物が崩れることだった。まさか、ここまで津波に襲われるとは」と振り返る。
 施設長の佐藤さんは自問する。「津波が来ることが分かっていたとしても、全ての高齢者を避難させられただろうか」
 移送手段は車しかない。スタッフは29人。当時ホームにいた高齢者67人の多くは要介護度4以上で寝たきりか、車いすが必要な人たちだ。車に乗せるのは2、3人がかりの作業になる。
 町社協デイサービスセンターでも、津波で利用者9人が死亡、1人が行方不明になった。高齢者21人に対し、避難誘導に当たったスタッフは半数に満たない10人だった。(門田一徳、渡辺龍)=2011年6月6日河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 5年の節目に際し、一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2016年02月08日月曜日


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