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<アーカイブ大震災>「細い糸」届いたSOS

出島から陸上自衛隊のヘリコプターで搬送された島民たち=2011年3月12日午後2時25分ごろ、石巻市総合運動公園

 宮城県女川町の離島・出島(いずしま)。巨大津波に襲われ、島民らが一時孤立する事態に陥った。外部との連絡が途絶え、不安の中で一夜を過ごした島民は、翌日午後には陸上自衛隊のヘリコプターで全員が宮城県石巻市に無事搬送された。震災直後の混乱の中での「スピード救出」。それを可能にしたのは、1台の衛星電話だった。

◎その時 何が(21)島を救った衛星電話(宮城・女川町の出島)

 養殖業が盛んで、釣り客にも人気の出島は人口約450人。地震発生時は350人前後が島にいたと推定される。
 2011年3月11日の津波は「高さ20メートル近かった」と島民たちは証言する。養殖施設や漁港に係留していた船はあっという間に流され、付近の家々も壊滅。町災害対策本部は後日、出島で13人が死亡、11人が行方不明だと確認した。
 津波を逃れた住民たちは島の中央部の山を駆け登り、多くは山頂付近の女川四小・二中の校庭に避難した。下校時間を迎えていた27人の児童・生徒も身を寄せ合っていた。
 気温が下がり、雪が吹き付けた。島民は体育館や教室に入り、近くの民宿などから運んだ毛布にくるまった。
 次第に、自分たちの置かれた深刻な状況が分かってきた。情報源はラジオだけ。電気・水道が止まり、携帯電話やインターネットも使えない。飲料水は残りわずか。夜が更けるにつれて不安と焦りが募った。

 12日早朝、外部と連絡を取ろうと教職員らは校庭の雪を払い、石灰で大きく「SOS 水 むせん」と書いた。数機のヘリが上空を横切ったが、気付かないのか、そのまま通り過ぎていく。
 「連絡方法は一つ」。出島地区の赤坂宏介区長(70)は必死にがれきの中を走った。島には町から配備された2台の可搬型衛星電話がある。出島、寺間の両区長の家に1台ずつ置かれていた。漁港に近い自宅の1台は水没してしまった。もう1台は寺間地区の高台に立つ植木千万夫区長(68)宅にある。
 寺間地区に着いた時、植木さんは沖に出した漁船で一晩過ごし、家に帰る途中だった。「出島区長が来てる。早く戻って」。遠くから自分を呼ぶ住民の声を聞いて、植木さんは「衛星電話を取りに来たとすぐに察しがついた」。走って戻り、家に無事残っていた衛星電話を手渡した。
 衛星電話は学校に運ばれ、当時女川四小校長だった今野孝一さん(51)が通信を試みた。訓練以外に触れることのない衛星電話は、バッテリーが切れていた。近くの道路工事現場の発電機から電源を取った。慎重にアンテナの向きを調整すると、受話器から発信音が聞こえる。
 今野さんは女川町や県の防災関係機関に次々と電話をかけた。だが、一向につながらない。少し考えて、ここは海の上だと気付いた。かけたのは海上保安庁の「118」。「救助要請ですか」。頼もしい声が耳に響いた。

 電話から約2時間後の午後1時ごろ、陸上自衛隊のヘリが島に降り立った。30人乗りの大型ヘリ2機が、島と石巻市総合運動公園との間を何度も往復した。全員を搬送し終えた時は午後5時を回っていた。
 島民たちは「われわれは運がよかった」と振り返る。万が一に備えて数年前に配備された衛星電話。1台は偶然高台にあった。学校の近くが道路工事中で、発電機が使えたことも幸いした。いずれが欠けても“細い糸”はつながらなかった。
 出島は今も電気・水道が止まり、島民は昼間、がれきの撤去などで島に渡りながら、夜は本土で避難生活を送っている。NTTドコモ東北支社によると、応急処置によって出島で同社の携帯電話がほぼ使えるようになったのは、震災1カ月後の4月10日だった。(成田浩二)
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 5年の節目に際し、一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2016年02月09日火曜日


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