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<アーカイブ大震災>大橋目がけて100台超

がれきの下から見つかり、積み上げられた被災車両。車内から多くの犠牲者が見つかった=2011年5月下旬、気仙沼市仲町1丁目

 東日本大震災が発生した2011年3月11日、最大震度7の激震、大津波警報の発令を受けて、人々は避難のため走りだした。予想を超える巨大津波は、必死で逃げた人たちをものみ込み、多くの犠牲者を生んだ。「ドキュメント 大震災」のシリーズ第2弾「逃げる その時」では、生死の分かれ目ともなったあの日の避難行動を検証する。

◎逃げる その時(1)大渋滞(気仙沼市街地)

 宮城県気仙沼市魚市場から西に約400メートルの幸町地区では東日本大震災の後、積み重なったがれきの下から100台以上の車が見つかった。避難しようとした車が内陸部につながる市道に殺到し、大渋滞が発生。身動きできない車の列に津波が襲い、多くの人が車内で犠牲になった。

 目の前を何台もの車が流れていく。ドンドン、ドンドン。助けを求め、車内から懸命に窓をたたく音が耳に届いた。「今行くぞ」と叫んではみたものの、どうすることもできなかった。
 2011年3月11日、気仙沼市幸町2丁目の無職畠山覚四郎さん(79)は夢中でよじ登った隣家の物置の屋根に立ちすくんでいた。

 自宅で大地震に見舞われた畠山さんは、すぐに妻かつ子さん(77)と隣に住む足の不自由な伯母を車に乗せて逃げた。防災無線は大津波警報を伝えていた。
 内陸部につながる気仙沼大橋に向かう市道は、渋滞でほとんど前に進めない。目の前の大川から突然水があふれてきた。
 「まずい」「徒歩で逃げるしかないか」
 自宅に引き返して車を止めた時、今度は海からの津波が押し寄せ、車を降りたかつ子さんと伯母が流された。車内にいた覚四郎さんは偶然、車ごと隣家の物置に押し付けられたことで助かった。
 かつ子さんと伯母は数日後、遺体で見つかった。自宅近くには高台の笹が陣地区がある。覚四郎さんは「坂が急で歩くのは大変だと思って車を使ったが、裏目に出た。2人を死なせたのがつらい」とうなだれる。

 離島の気仙沼大島で旅館を営む堺健さん(60)も、市魚市場近くの知人宅で地震に遭い、軽乗用車で気仙沼大橋へ向かった。
 幸町でやはり大渋滞に巻き込まれた。バックミラーを見る。がれきが壁のように折り重なり、3メートル近い高さの塊になって迫る。塊には後続の車も交じっていた。
 とっさに右の脇道に入った。幸運にも車は大破した建物などのがれきの上に乗って、浮いた。窓から抜け出し、民家の屋根に飛び移った。
 堺さんは「なぜ助かったか分からない。車で移動しようとしたのは間違いだった」と反省する。
 大渋滞が発生した市道は、気仙沼港と大川の間を東西に走る。気仙沼大橋を渡れば最短距離で内陸部に向かうことができる。だが津波は、この道を「挟み撃ち」にした。

 気仙沼署によると、震災後、市道周辺には何層にもがれきが重なり、下層からは建物に押し込まれた車100台以上が見つかった。その多くに、避難途中で犠牲になったとみられる遺体があったという。
 佐藤宏樹署長(49)は「渋滞時、署員が車を捨てて逃げるよう呼び掛けたが、誰も出てこなかった。『ここまでは波も来ないだろう』『車を置いていけない』という思いが悲劇を拡大したのではないか」と指摘する。
 震災前に市が定期的に行ってきた防災講座では、市中心部の住民には徒歩で逃げるよう呼び掛けてきた。
 東北大災害制御研究センターの今村文彦教授(津波工学)は「本当に車での避難が必要な高齢者、乳幼児らがいち早く安全な場所に避難できるよう、徒歩で逃げられる人は車の使用を控えるべきだ」と話す。(丹野綾子)=2011年6月21日河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 5年の節目に際し、一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2016年02月11日木曜日

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