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<アーカイブ大震災>700人混乱 迫る波

津波で大きな被害を受けた夢メッセみやぎ=2011年3月12日午前9時40分ごろ、仙台市宮城野区港3丁目

 仙台港近くの展示場「夢メッセみやぎ」は震災時、イベントの最中だった。混乱に陥った来場者約700人をイベントの運営者が屋上へ避難誘導することで、幸いにも死傷者は出なかった。だが、これがもし数千人規模の大イベントだったら―。「避難場所が足りず、大惨事になっていたはず」。関係者は血の気が引く思いで振り返る。

◎逃げる その時(2)イベント会場(仙台港・夢メッセみやぎ)

 建物がミシミシときしみ、はりがたわんだ。食器は散乱。照明が消えると、パニック状態に陥った人々は出口に殺到した。
 2011年3月11日。メッセ展示棟は平日ながら大勢の来場者でにぎわっていた。全国のご当地グルメ100店を集めた「グルメコロシアム」が開幕。華やかな食が並ぶ会場を午後2時46分、激しい揺れが襲った。
 会場にいた仙台市青葉区の自営業泉田智行さん(35)は「多くの女性がしゃがみ込み、泣き叫んでいた」と語る。
 「大津波警報が出ています。落ち着いて。ここを離れないでください」。揺れが収まった午後3時すぎ、避難が始まった。メッセ会議棟と、隣接する仙台港国際ビジネスサポートセンター(アクセル)の二手に分かれ、会場スタッフ50人が誘導した。
 いち早く動けたのは理由がある。2日前にあった震度5弱の地震を受け、この日朝に津波を想定した避難手順を打ち合わせしていた。障害者、高齢者らの避難には来場者も協力し、車いすを担いで屋上への階段を上った。
 それでも避難は間一髪だった。「どうせ津波なんて来ない。帰らせろ」。車に乗り込もうとする来場者を、スタッフは半ば強制的に押しとどめた。「無理にでも屋上へ避難させて正解だった」。イベント主催者である仙台放送の倉内宏事業部長(46)が振り返る。

 午後3時53分。隣接する仙台港の輸出用モータープールの車を押し流しながら、茶色い水が押し寄せてきた。200人が避難した会議棟周辺には、津波に気付かないまま走る車がいた。
 「運転手さん 止まってー」「急いで高い場所に上がれー」。屋上から拡声器で必死に呼び掛けたが、何台もの車が津波に流されていく。
 宮城県亘理町の主婦(40)は「車中で聞こえなかったのだろう。地獄絵図だった」と声を震わせる。高さ13メートル、2階建ての会議棟も屋上の数メートル下まで水が迫り、女性と子どもは給水タンクに上らせた。
 会議棟入り口に津波で激突した車3台から炎が噴き出し、建物に黒煙が入り込んできた。目の前のコンビナートも火の海になっている。
 出店者の渡辺真奈美さん(43)=北海道利尻富士町=は「建物がいつまで持つか、みな恐怖の絶頂だった」。吹雪が容赦なく吹きつけ、うずくまる避難者も出てきた。
 「もう限界だ」。歩けるくらいに波が引いたのを見計らい、会議棟の200人は裏口から、5階建てのアクセルを目指し脱出した。「今また津波が来たら…」。渡辺さんは祈るような気持ちだったという。

 もともといた人も含め、アクセルには700人を超える避難者が集まった。ペットボトル10本程度の水と菓子を分け合い、一晩をしのいだ。防寒用に配られたのは新聞紙1人1枚。幸い医師と看護師が居合わせ、妊婦や透析患者のケアができた。
 主催者のマイクロバスで来場者をJR陸前高砂駅へピストン輸送し終えたのは翌日夕だった。
 アクセルが収容できるのは700人が限度とみられる。「平日だったのが幸運だった。数千人の訪れる土日だったら、逃げ場がなく誘導も無理だった」。メッセを管理するみやぎ産業交流センターの高橋一夫常務(63)は胸をなで下ろしつつ、こう指摘する。
 「津波はいつか再び来る。水、食料を備蓄できる避難ビルを早く仙台港に造ってほしい」(酒井原雄平)=2011年6月22日河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 5年の節目に際し、一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2016年02月12日金曜日


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