宮城のニュース

<アーカイブ大震災>生きたかったら残れ

高野会館の屋上まで水が押し寄せ、建物最上部に移動する避難者ら=2011年3月11日午後3時40分ごろ(従業員提供)
330人を救った高野会館の屋上。中央奥に見えるのが公立志津川病院=2011年6月19日、宮城県南三陸町志津川

 志津川湾から約300メートルの平地に立つ宮城県南三陸町の総合結婚式場「高野会館」。震災時、利用客や従業員ら約330人は会館にとどまった。「帰したら、津波で危険だ」。避難誘導に当たった従業員らのとっさの判断が、全員の命を救った。

◎逃げる その時(3)帰さず(宮城・南三陸町、高野会館)

 会館を出ようと、ロビーに殺到した人だかりが歩みを止めた。階段の前で、従業員らが大きく手を広げ、仁王立ちになって行く手を遮っていた。
 「生きたかったら、ここに残れ」。男性の怒鳴り声が響いた。
 「頑丈なこの会館が崩壊するなら町は全滅する」。同会館営業部長の佐藤由成さん(64)は、1988年の開館当初から勤務。設計段階から知り尽くした建物の強度に自信を持っていた。
 「お年寄りの足では途中で津波に遭遇してしまう」と判断したのは町社会福祉協議会総務課長の猪又隆弘さん(52)。経験と利用客の状況を踏まえ、4階建ての会館にとどまるのが最善と考えた。

 地震発生時、3階の宴会場は老人クラブによる「高齢者芸能発表会」の閉会式のさなか。強烈な横揺れに大勢の客はパニック状態になった。
 1階にいたマネジャーの高野志つ子さん(67)が階段を駆け上がると、従業員らが来館者を上階に誘導するのが見えた。
 最高齢90代後半、平均80歳前後。来館者の避難は困難を極めた。
 「早ぐ上がって、早ぐ上がって」。営業課長の西條正喜さん(44)は列の最後尾で追い立てた。階段は人でびっしり。「このままでは津波にのまれる」。体力のある人がお年寄りを背負った。
 町社協老人クラブ担当の佐々木真さん(39)は4階への階段を上りながら、背後に津波を感じた。ガチャン、バキバキ。1階の窓ガラスが割れ、2階にもがれきが流れ込んだのが音で分かった。3階を振り返ると、ロビーの窓ガラスを大量の水が突き破った。足元もぬれていた。
 屋上には既に水が押し寄せていた。水位は膝まである。「ここもだめか」。西條さんと佐々木さんらは、普段人が入らないエレベーター室や高架水槽などがある会館最上部へ避難誘導を急いだ。

 四方を水で囲まれた会館はまるで孤島のようだった。佐藤さんの手帳には津波の記録が残る。
 <午後3時26分、第1波。40分、引き始め>
 <4時13分、第2波。28分、引き方開始>
 <5時、第3波。10分、引き波開始>
 そう書いたところで手が止まった。2キロ弱先の荒島までの海底が姿を現している。
 「次の波が来たらみんな死んでしまう」。スーツの内ポケットに手帳を仕舞い、ボタンを掛けた。自分が流されても記録は残るように―。
 佐藤さんの記録によると、第4波は午後5時32分に襲来。屋上までには到達しなかった。

 会館に孤立したのは約330人。4階にある約25平方メートルと約30平方メートルの会議室二つは人であふれ、廊下や更衣室まで埋め尽くされた。
 室内は人いきれで息苦しいほどだった。深夜、80代の女性が意識もうろうとなった。
 「脳梗塞の疑いがある」と町社協の看護師。佐藤さんは最上部に上がり、公立志津川病院へ向かって大声で呼び掛けた。
 「先生、倒れている女性がいます。波が引いたら、そちらで診ていただけませんか」
 医師とみられる男性の声が返ってきた。「こちらは薬も電気もない。7人が亡くなりました」
 風通しのよい場所で寝かせるよう助言された佐藤さんは、全員に屋上に出るよう促した。「外の空気吸ってきてけさい」。10分ほどの短時間だったが、室内に外気が入ると女性は持ち直した。
 職員らの判断と機転。会館で命拾いしたお年寄りは口をそろえて言う。「よく生きていられた。従業員らの指示に従い会館に残ってよかった」(村上俊、渡辺龍)=2011年6月23日河北新報
          ◆         ◆         ◆
 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 5年の節目に際し、一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2016年02月13日土曜日


先頭に戻る