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<アーカイブ大震災>訓練通り 迅速に誘導

避難経路を歩き、震災当日を振り返る鈴木茂さん(右)と鈴木貞治さん。奥は小鯖漁港=2011年6月20日、気仙沼市唐桑町小鯖
小鯖自治会が作成した避難地図

 地域を挙げて避難訓練を重ね、手助けが必要な障害者やお年寄りの把握にも努めてきた宮城県気仙沼市唐桑町小鯖地区(155世帯)では、住民がほぼ訓練通りに行動し、犠牲者を最小限に食い止めた。自治会が「隣組」ごとに編成した12班は、それぞれ事前に決めていた避難場所に組織的に避難。各班の責任者に配備されたトランシーバーも、安否確認や責任者同士の連絡に威力を発揮した。

◎逃げる その時(4)備え(気仙沼・唐桑町小鯖地区)

 「迷わず、訓練通りに体が動いた」。7班責任者の衣料店経営鈴木茂さん(56)が、地震直後の行動を振り返る。
 玄関に常備するトランシーバーを手に外に出た鈴木さんは、7班の全10世帯を避難路に誘導し、体が不自由なお年寄りだけを車に乗せて避難場所へと運んだ。「うちにいたい」と拒む人もいたが、親類を連れて再び迎えに行き、説得した。
 「5班は大丈夫」「異常なし」。住民の安否確認を終えた各班の責任者から、相次いでトランシーバーに連絡が入った。
 鈴木さんは「携帯電話がつながらない中、班ごとに安否が確認できた。大きな安心感があった」と振り返る。

 小鯖漁港のそばで釣具店を営む小松好子さん(82)を救ったのは、近所のガソリンスタンドの男性社員の声だった。
 「地震の次は津波が来るから。もう1段、もう1段上がりなさい」
 当時自宅にいたのは、6人家族のうち小松さんだけ。避難を促す声に背中を押されるように、自宅裏の避難階段を夢中で上った。
 午後3時10分すぎ。後ろから10メートル以上の黒い波が迫ってきた。高台に上った小松さんは、引き波で店舗を兼ねた自宅が湾内に流されるのを見た。
 最後尾で誘導した尾形和洋さん(34)は「お年寄りの足では、津波にのまれかねなかった。高齢者の避難に最も気を使った」と言う。
 小鯖自治会副会長の鈴木貞治さん(62)は「迅速に避難を誘導できたのは、日ごろの訓練のおかげ」と強調する。12班はそれぞれ最寄りの高台を1次避難場所に指定し、経路を示した避難地図を全戸に配布。要援護者を把握するため、「住民名簿」や「家族カード」を作り、訓練を重ねて、近所ごとに要援護者を誘導する取り組みも進めていた。

 津波で海岸沿いの住宅53世帯が被災したが、1次避難場所は全て無事だった。浸水域は、避難地図作成のベースになった宮城県沖地震の想定浸水範囲「標高10メートルライン」と重なる。1次避難場所は標高20メートル前後の場所に指定していた。
 避難場所に逃げたのは12カ所で計151人。自宅にいたほとんどの住民が助かったが、3世帯6人が行方不明となった。
 住民によると、このうち1世帯3人はいったん避難路を上ったが、「忘れ物」と言って自宅に戻った。家族の一人は元遠洋漁船員。航海が長く、日ごろ訓練に参加できなかった。
 12班の責任者、後藤一郎さん(63)も行方が分からない。地震発生後、トランシーバーで「異常なし」と仲間に連絡していた。妻光子さん(55)は「近所の安否確認をした後、つないでいた愛犬を逃がすため自宅に戻ったのでは」とみている。
 ほかに、お年寄りと娘の1世帯2人が逃げ遅れた。
 万全だったはずの備え。想定通りの津波。それでも犠牲者が出た。
 住民は言う。「津波から逃げるには、備えが要る。でも、いざとなれば何が起こるか分からない。失敗こそ教訓にして、記憶にとどめたい」(高橋鉄男)=2011年6月24日河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 5年の節目に際し、一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2016年02月14日日曜日

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