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<アーカイブ大震災>「避難」言葉の壁厚く

小山ジュリエットさん(左)と義母の寿子さんらが、宣広さんの電話を受けた保健センター裏の高台。忠告に従い逃げた数分後、濁流が襲った=2011年6月25日、宮城県南三陸町志津川城場

 大震災では、大勢の外国人も被災した。警察庁によると、2011年6月27日現在、死亡した外国人は29人。うち7割近い20人が宮城県内で亡くなった。震災発生直後、外国人が取った行動を調べると、運に加え、「日本語」「近所付き合い」「防災意識」の3点が生死を分けた要因として浮かび上がった。

◎逃げる その時(7)外国人(宮城)

 「高台に避難してください」
 津波から多くの日本人の命を救った防災無線やラジオの呼び掛けが、宮城県南三陸町のフィリピン人にはほとんど理解されていなかった。
 35年前に来日した英語講師佐々木アメリアさん(57)は「心配していた通りになった」と表情を曇らせる。
 震災後、フィリピン人妻ら十数人に聞いたところ、「高台」「避難」の意味が分からなかった人が多かった。大半は日本人の夫と逃げたか、隣近所の日本人に促されて逃げ、一命を取り留めたが、女性(29)が津波で亡くなった。
 アメリアさんによると、女性は日常会話はできたものの、防災無線の日本語は聞き取れなかった可能性が高い。石巻市のスナック勤めで、南三陸町のフィリピン人社会や、隣近所との付き合いはほとんどなかった。「日本人の夫以外に、避難するよう教えてくれる隣人はいなかったはず」とアメリアさんはみる。
 流ちょうな日本語を話す千葉ジョイさん(44)は「私も『高台』『避難』の意味は分からなかった。『高い所に逃げて』と繰り返し言われれば、助かったかもしれない」と同胞の死を悼む。

 志津川中で避難生活を送る来日20年の小山ジュリエットさん(44)を救ったのは、防災無線を聞き取る日本語能力と夫からの電話だった。
 地震と停電で通話できないと思っていた携帯電話が午後3時10分すぎ、突然、鳴った。「大津波が来る。できるだけ高い所に逃げろ」。夫の宣広さん(42)だった。
 宣広さんは近海マグロはえ縄船の漁師。太平洋の沖合数十キロで津波をいち早くキャッチし、衛星電話で危機を知らせた。
 地震発生時、海沿いにある水産会社の加工場にいたジュリエットさんは防災無線に従い、既に指定避難所の志津川小へ向かっていた。途中、志津川保健センターにほど近い夫の実家に立ち寄った。
 直後、宣広さんから電話があった。忠告に従い、義父母と一緒に高台に逃げた。振り返ると「真っ黒な濁流が、数分前までいた小高い場所をのみ込んでいた」という。
 ジュリエットさんの友人の斎藤ジュリエットさん(44)は同じころ、日本人の夫と逃げた高台で、泣きながら上空を見上げていた。「この世が終わる。イエス・キリストが降臨する」と。

 あの時、中国・大連出身の広岡燕燕さん(37)は宮城県山元町の自宅にいた。海岸まで約1.2キロ。「地震が起きたら津波が来る。すぐ役場へ逃げて」。日本人の夫の口癖が頭に浮かんだ。
 サンダル履きのまま、3キロ以上離れた町役場を目指し、長女歩実さん(7)と自宅を飛び出した。道路はひび割れ、水が噴き出す。空は暗く、海岸から真っ黒い土煙が追い掛けてくる。
 津波の恐怖と闘いながら、十数分走り続けた。息も絶え絶えになり、道路に飛び出して白いワゴン車を止め、叫んだ。「娘だけでも」。ワタナベと名乗る男性が2人を乗せてくれた。
 津波は町役場の近くまで迫り、自宅1階は水に漬かっていた。
 「夫の口癖と、親切な日本人のおかげ」。山元町の仮設住宅で、燕燕さんは歩実さんの髪を優しくなでた。(山崎敦、片桐大介)=2011年6月28日河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 5年の節目に際し、一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2016年02月17日水曜日

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