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<3.11と今>帰還信じ農業続ける

ミカンの手入れをする渡部さん。自らハンドルを握り、福島へトラックで運ぶ=2日、愛媛県伊予市

◎古里を離れて(5)南相馬市→愛媛県伊予市 渡部寛志さん

 心の中に「二つの時計」がある。新天地で時を刻む時計と、あの日を境に止まった福島の時計だ。「本来の生活、生きる場がそこにあったと思うと、古里は捨てられない」。福島の土を耕した日々を思い出す。
 松山市から南へ6キロ、愛媛県伊予市の小高い丘に、黄金色に染まったミカン畑が現れる。手入れに励むのは農業渡部寛志さん(37)。東京電力福島第1原発事故で南相馬市小高区の自宅が避難区域になり、2011年4月に移り住んだ。
 福島ではコメや野菜作りのほか、養鶏も手掛ける専業農家だった。先祖代々受け継いだ土地には、大量の放射能が降り注いだ。
 「先祖はコメ作りを絶やしたことはなかった。農民であることを諦めたくない」。当時6歳だった長女明歩さん(11)の小学校入学を落ち着いて迎えたい気持ちも強かった。大学時代を過ごした愛媛に逃れた。
 避難後、すぐにミカン栽培を始めた。「放射能の心配のない農作物を福島の人に食べてほしい」。コメや野菜は、風評被害に苦しむ福島の農家と競合してしまう。温暖な土地ならではの果物を選んだ。
 11年11月、ミカンを初収穫すると、自らトラックで福島の知人の元へ届けた。陸路で1200キロも離れている。周囲から「宅配便を使ったら」と言われたが、「古里とつながっている実感を持ちたい」と配達を続けた。翌年からは収穫量が増え、年10回のペースで通った。
 子どもにとっては愛媛が第二の古里になりつつある。
 3年前、明歩さんが愛媛県のイベントで作文を発表した。「はやく、ふくしまに帰りたい。えひめに来てきおんはあったかかったけど、心はさむかったです。こわくてハッピーな毎日です」
 ちぐはぐな文章に、幼いながらの正直な気持ちが表れる。「『子は親の鏡』と言うけど、どっちつかずの親の姿が影響を与えているのかな」
 明歩さんや次女明理さん(7)は最近、伊予弁を口にするようになった。渡部さんが福島弁を話すと、くすっと笑う。「伊予の言葉は家の中では禁止だぞ」。冗談半分で注意するが、心の中は複雑だ。
 安住の地を求めたはずの愛媛で昨年10月、衝撃的なニュースが飛び込んできた。愛媛県知事が四国電力伊方原発(伊方町)3号機の再稼働に同意した。
 原発までは自宅を構える伊予市から40キロほど。「避難当時、原発が愛媛にあるかどうかは移住の判断材料にならなかった」。全国の原発がなくなると信じて疑わなかったからだ。
 渡部さんはあの日から5年となる3月11日に向け、愛媛の避難者の思いをつづった文集を発行する。避難する仲間と設立したNPO法人「えひめ311」の活動の一環。愛媛の人々に読んでほしいと願う。
 「原発を動かすべきか、もう一度耳を傾けてほしい」
 南相馬では今春の帰還を視野に入れた動きが始まっているが、子どもたちが高校を卒業するまでは愛媛で暮らすつもりだ。時計の針を動かすのは、その後でいいと思っている。(桐生薫子)


2016年02月20日土曜日

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