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<あの時政治は>空振りの宣言 深まった溝

「収束」宣言の約1週間前、原発警戒区域では除染作業が続いていた=2011年12月、福島県富岡町(写真は加工しています)

◎震災5年(下―2)「収束」の虚実

 原発事故「収束」宣言は空振りに終わった。「福島の再生なくして日本の再生なし」。首相野田佳彦が記者会見で力を込めた言葉は色あせた。
 「信じられない」「子どもを連れて帰れない」…。「収束」宣言を、原発事故の「終息」と読み替えた避難者の不安と不満は膨らんだ。福島県浜通りを地盤とする自民党衆院議員吉野正芳(福島5区)は「被災者の支援策、汚染水対策の推進といった課題を、民主党が自らあぶり出す反作用のようなインパクトがあった」と皮肉交じりに語る。
 宣言への反発の傍ら、収束に向けたレールは政府の主導で、歳末にかけ突貫で敷かれていった。12月21日、政府は「最長40年」とする新たな廃炉工程表を決定。県内の避難区域の再編に着手し、除染廃棄物の中間貯蔵施設を双葉郡に設置する方針を地元に伝えた。事故対応は待ったなしだった。
 日本の原発事故対応は国際社会が注目していた。2013年9月、現首相安倍晋三が国際オリンピック委員会総会で、汚染水問題をめぐり「状況はコントロールされている」と発言したことは、その裏返しだった。安倍は東京五輪の20年開催を引き寄せる一方、福島の反発を招くことになる。
 後に、原発事故担当相細野豪志は宣言のタイミングを「早すぎた」と認めた。それでも「宣言自体は必要だった」との思いは揺るがない。「5年たった今も、あの時以外に発表する機会はなかったと思う。危機的な状況を脱し、これから長い廃炉へのプロセスに入るという整理の仕方をした」
 被災者の境遇や心情を半ば無視したような宰相の言動。未曽有の複合災害に見舞われた被災地、被災者には鋭く突き刺さり、帰還や復興の意欲をそぐ副作用をもたらした。「原発に関しては、いろんな感情のひだがあることを踏まえなければならない。政治家は国内外の不安を取り除く意味でも、むしろ力強い言葉を使わなければならない時もある。でも、それによって置き去りにされる人たちの気持ちがあることも経験した」
 野田は国家と国民のはざまで、制御し難い原発事故に向き合う困難さを思い知った。
 虚実をはらんだ「収束」宣言の発表からちょうど1年後の12年12月16日。民主党は衆院選で壊滅的な惨敗を喫し、下野した。「2011年の政治」の、一つの帰結点だった。(敬称略。肩書は当時)


2016年03月02日水曜日

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