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<アーカイブ大震災>避難所運営に教職員忙殺

今も約80人が避難生活を送る大街道小の体育館。震災発生から2週間、教職員が避難所運営に忙殺された=2011年7月15日、宮城県石巻市

 東日本大震災では、発生直後から、被災地の学校が避難所となった。児童・生徒の安否確認や心のケア、学校再開に向けた準備などが求められる教職員が、避難所の運営に忙殺されたケースも多い。学校運営、避難所運営ともに課題を残した。

◎学校で何が(13)再開準備に専念できず(石巻市・大街道小、仙台市・南小泉中)

 震災の発生時、宮城県石巻市大街道小(児童343人)の校長だった佐藤康さん(55)=宮城県栗原市志波姫小校長=は、地震の1週間後、ようやく学校に来た石巻市職員の「第一声」に脱力したことを、鮮明に覚えている。
 石巻湾から約3キロの大街道小は、津波で1階部分が浸水。周囲の住宅も被害を受け、約1300人が避難した。教職員は避難所の運営で多忙を極めていた。
 市職員の派遣で学校本来の業務ができる―。期待は外れ、若い職員2人は申し訳なさそうに言った。
 「先生方のお邪魔にならないようにします」
 石巻市教委は2010年1月、小中学校が避難所となった場合の教職員の行動指針をまとめた。教職員の最優先事項は「児童生徒の安全確保」。校長は避難所を開設し、運営は市が引き継ぐと定めている。
 実際は開設後、教職員21人が寝る間もなく避難所の運営に追われた。朝、昼、晩と1000人前後の食料を仕分けし、断水したトイレに流す水も用意した。教室内でたばこを吸ったり、酒を飲んで大声を出したりする人への対応にも当たった。

 忙しさは、市職員の到着後も改善されなかった。北村統教頭(50)は「校舎を離れられるのは、倒れて病院に運ばれる時だろうとさえ思った」と振り返る。
 避難者の自治組織に運営が移り、教職員が学校の再建業務に専念できるようになったのは、地震発生から約2週間後のことだ。市の担当者は「家族や自宅を失った職員も多く、マニュアルが機能しなかったことは否定できない」と話す。
 仙台市若林区の南小泉中(生徒479人)は、震災直後から、武道館が避難所となった。地域はライフラインが断絶。夕方には200人ほどが詰め掛けた。
 教職員が総出で避難者名簿の作成や調理に当たった。明かりは理科室で集めた実験用のろうそく。教職員は12時間交代で、約1カ月間も泊まり込んだ。 南小泉地区では毎年、約700人が参加して学校で防災訓練を実施している。ことし2月にはゲーム形式で避難所の運営方法も学んだ。
 南小泉地区町内連合会副会長の渡辺文夫さん(78)は、学校中心の避難所運営になったことについて「最初の3日間は町内会を軸に共助、その後は公助という認識だった。訓練が生かされず、残念だ。学校ももっと、地域の力を借りた方がよかった」と語る。

 避難所のルール作りなどでは、地域のリーダー役が必要とされる。ボランティアとして南小泉中の避難所運営に関わった東北大大学院生寺門大毅さん(23)は「日替わりで訪れる市職員だけでは、調整が難航し、掃除などの役割分担がなかなかまとまらなかった」と指摘。学校や町内会を含めた地域全体の連携の必要性を訴える。
 学区内に町内会や子ども会が組織される小学校に比べ、複数の小学校区にまたがる中学校は、地域と距離が開きがちだともされる。柴田裕之教頭(50)は「南小泉地区だけでも31の町内会があり、把握が難しい。今後、交流の機会を増やし、地域とのつながりを強化したい」と話している。(土屋聡史、佐藤素子)=2011年7月21日河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 5年の節目に際し、一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2016年03月06日日曜日

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