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<菅原智恵子>ひたむき努力土壌に

日本代表のコーチとして後進の指導に当たる菅原。剣技を究める道は続く=1月27日、東京・味の素ナショナルトレーニングセンター

 菅原智恵子は宮城県気仙沼市出身の名フェンサー。東日本大震災で傷ついた故郷を思いながら、今も剣技を追究する。日本人選手の可能性を示した菅原の足跡をたどる。(敬称略)(佐々木貴)

◎敗れざる人(1)剣のまち

 17世紀のスペインの小説に「ドン・キホーテ」がある。作者はセルバンテス。初老の男が「遍歴の騎士」になりきって旅に出る。
 妄想、風刺、滑稽。400年以上前の物語は多様な解釈がなされてきた。その中で一点、読者の心を捉えるのは、理想と現実のはざまで揺れながら、ひたすら前へ進む主人公の姿である。
 東日本大震災から5年。想定外、そして無念無常。被災者の胸の奥には今なお、複雑な感情が渦巻く。それでも皆は復興という目に見えぬ未来へ果敢に立ち向かう。
 2月の港町、気仙沼を歩いた。明かりのともる体育館の窓越しに子供たちの姿が見えた。フェンシングの練習だった。中世ヨーロッパの騎士道の流れをくみ、1896年の第1回アテネ五輪から採用されたこの競技と気仙沼市民の関係はとても深い。

<50年代に先人が礎>
 時代は1950年代にさかのぼる。2人の先人が礎を築いたといわれる。
 まずは佐藤美代子(故人)。仙台のフェンシング教室に通った体育教師で、52年、鼎が浦高(現気仙沼高)にフェンシング班を創設した。当時は校庭が狭く体育館の天井も低かった。だが「能力が劣っているはずのない生徒たちに励みを与えたい」と、練習でそれほど広い場所を取らないフェンシングを指導した。
 翌53年には元日本王者の千葉卓朗(故人)=元宮城県本吉町長=がコーチに就任し、全国高校総体15度制覇(女子団体)の実績を誇る強豪校に育つ。生前、強さの秘密を「田舎者の良さ、ひたむきな向こう気の強さ、身近に実感していた先輩の強さに追いつこうとする可能性を信じての努力」(鼎が浦高フェンシング班50周年記念誌)と説いた。
 地域に根付いた理由に市民気質を挙げる人もいる。気仙沼市本吉町フェンシング協会監督の三浦永司(52)は「昔から(漁船員など)さまざまな人々が地域に出入りしていたため、新しい文化を受け入れることへの抵抗感があまりない」と指摘する。

<日本初 五輪で入賞>
 こうした背景もあり、気仙沼のフェンシングの歴史は連綿と続いてきた。その中に現れたのが菅原智恵子(39)=気仙沼市出身=。鼎が浦高で競技を始め、2008年北京五輪で個人では日本勢初の入賞を果たした。
 現在は若手の育成に力を注ぐ。「何らかの形で気仙沼に恩返しをしたい。何ができるかずっと考えてきた」。出した結論は「今やっていることを究める」。

[すがわら・ちえこ]宮城・鼎が浦高(現気仙沼高)でフェンシングを始め、日体大卒業後に日本代表入り。五輪は3大会連続で出場し、08年北京、12年ロンドンの2大会連続で女子フルーレ個人入賞を果たした。05年ワールドカップ(W杯)で日本女子初優勝。世界ランクは最高4位。日本フェンシング協会所属。気仙沼市出身。


2016年03月07日月曜日


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