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<3・11と今>ありがとう 春旅立つ

ミニスーパー「おんま〜と」で客と談笑する(右から)亮太さん、広樹さん=3日、宮城県女川町
夕食を取りながら笑顔で語り合う亮太さん(右)と広樹さん=2011年9月16日、宮城県女川町

◎追憶 大切なあなたへ(5)佐藤亮太さん=聖和学園高3年

 家族との記憶が刻まれた地に必ず戻ってくる。志を抱いて大学に進む。
 宮城県女川町出身の聖和学園高3年佐藤亮太さん(18)は4月、東京の高千穂大経営学部に入る。起業家の話を聞いたり、会社の研修に参加したりして経営のイロハを学ぶ。
 「女川が大好き。将来は古里のために、女川のスーパーで働きたい」
 幼いころ、女川湾近くにあった「女川スーパーおんまえや」によく通った。創業約50年。母ら家族が切り盛りし、店員やお客さんの笑顔があふれていた。
 東日本大震災の津波が店を流し、母美和さん=当時(38)=と祖母佳世子さん=当時(62)=、曽祖父母の命を奪った。
 美和さんは女手一つで亮太さんを育てた。亮太さんは震災当時、女川一中(現女川中)1年。あの日は寝坊し、母に学校へ送ってもらった。「ありがとう」「野球頑張ってね」。それが最後の会話。しばらく、ありがとうと言えなくなった。言えばまた、大切な人がいなくなってしまいそうで怖かった。

 震災後にスーパーの社長に就いた叔父、佐藤広樹さん(34)が養育里親だ。震災前から「おにい」「亮太」と呼び合う間柄。
 亮太さんはプロ野球選手に憧れた。2012年夏の全国高校野球選手権宮城大会で4強入りした聖和学園高へ進みたい。そう打ち明けると、広樹さんは「やりたいことを一生懸命やれ」と後押ししてくれた。
 現実は甘くなかった。
 仙台市内の高校の寮でホームシックになった。寮の朝の点呼に遅れたり、授業中の態度が悪かったり。規則を破り、野球部で練習できない日も相次いだ。
 高2の前半、広樹さんに本気で怒られた。「何か一つ、これだけは負けねえっていう力を付けろよ」
 野球部では公式戦に出られず、3年夏に引退。懸命に野球に打ち込んだと思えるのは最後の半年ぐらい。悔いが残った。
 「中途半端だった。大学で学び、女川で経営がしたい」「後悔はするな」。AO入試に合格した。
 広樹さんは昨年12月、女川町中心部にミニスーパー「おんま〜と」を開いた。亮太さんはレジなどを手伝い、教えを受ける。
 亮太さんは今でも、家族4人の死を受け入れたくない。「夢としか思えない」。悲しさ、寂しさは時間が解決してくれない。より一層深くなる。

 亮太さんの気持ちを受け止めながら、広樹さんは時に厳しく叱る。他人に迷惑を掛けず社会で通用する人に成長してほしい、と願うからだ。石巻市内の仮設住宅で妻菜央さん(30)、3〜8歳の子ども4人と生活する。「亮太も大事な家族だ。バカヤローと思うときもあるけれど、やっぱりかわいい」
 亮太さんも言う。「おにいは本当の子どものように自分の面倒を見てくれた」。広樹さんが手を差しのべてくれなかったら、天涯孤独だった。
 ありがとう−。感謝の気持ちを胸に春、旅立つ。(水野良将)


2016年03月08日火曜日

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