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<菅原智恵子>引退後 代表コーチに

北京五輪で日本フェンシング界初の個人入賞を果たした菅原(左)。日本人選手の可能性が広がった瞬間だった=2008年8月

◎敗れざる人(2)転機

 繊細かつ軽快な身のこなしは現役時代をほうふつとさせる。1月下旬。東京・味の素ナショナルトレーニングセンターに、剣先が交錯する乾いた音が響いた。
 フェンシング日本代表コーチの菅原智恵子(39)=宮城県気仙沼市出身=が、狩野愛巳(19)=早大、仙台三高出=と剣を突き合う「レッスン」に臨んでいた。昨年7月の世界選手権フルーレ団体に出場するなど、将来が期待される狩野は「世界を知るコーチから貴重なアドバイスをもらっている」と話す。
 「自分のフェンシングスタイルが感覚的だった分、言葉でどう伝えるかが難しい。でも、人に教えることは勉強になる」と菅原。指導者としてのやりがいを日々感じているようだ。

<国際大会でけん引>
 女子のエースとして日本をけん引した。2007年、主将として出場した世界選手権女子フルーレ団体で当時世界ランク1位の強豪イタリアなどを破り、銅メダルを獲得。フェンシングでは五輪を含め、個人、団体を通じて日本勢初のメダルだった。
 翌08年北京五輪女子フルーレ個人でも日本勢初の7位入賞。ベスト8を決めた3回戦は驚異的な粘りを発揮した。0−3で迎えた最終第3セット、5−5と追い付くと、一本勝負の延長戦は開始20秒、鮮やかなカウンターで勝利を手にした。「日本人でも勝てる」と実証した功績は計り知れない。
 日体大卒業後の1999年、教員として母校の宮城・鼎が浦高(現気仙沼高)に赴任。教職と選手生活の傍らフェンシング班顧問の一人となった。
 チームは02年に高校選抜、高校総体、国体の全国3冠を達成した。当時のメンバーの斎藤綾(31)=宮城・加美農高教=は菅原の姿を見て教職を志した。「練習は常に真剣勝負。どんな時も強気で立ち向かう大切さを学んだ」と振り返る。

<復職後地元離れる>
 菅原は北京五輪後、「やるだけやった」と国際大会の一線から退き、再び地元で教員に復職した。そこへ、人生の転機が訪れる。10年秋、日本協会から代表チームのコーチ就任要請が舞い込んだ。
 父清喜(66)=気仙沼市=には猛反対された。「お前は宮城で育てられたんだから宮城に残るべきだろう」。菅原も同感だった。しかし「高いレベルで剣技を究めてみたい」という思いがあった。
 考え抜いた末にコーチ就任を受け入れた。翌年4月から、新たな形でフェンシングに携わることになった。東京に向かう日が近づいた11年3月11日、東日本大震災は起きた。(敬称略)


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2016年03月08日火曜日


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