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<菅原智恵子>被災…現役復帰決断 五輪へ

ロンドン五輪出場を決め、気仙沼市であった壮行・激励会に出席した菅原(中)と千田(左)=2012年7月

◎敗れざる人(3)葛藤の末

 聞いたことのない携帯電話の音が鳴った。「何だろうね」。2011年3月11日。宮城県気仙沼市にある気仙沼高の教官室で菅原智恵子(39)=気仙沼市出身=は同僚と顔を見合わせた。緊急地震速報だった。
 間もなく校舎が揺れ始める。激しく、長い。顧問を務めるフェンシング班の練習場は天井のパネルが落ちた。災禍は時間の経過とともに深刻さを増した。夜、気仙沼市鹿折地区の火災が見えた。数キロ離れているのに、まるで間近で燃えているような熱風だった。
 翌日以降、津波被害の爪跡ははっきりしてきた。全てが混沌(こんとん)としていた。学校は市民の避難所となり、生徒たちの安否確認や暖房器具の設置などに当たった。
 目の前に広がる光景を見て、菅原は悩んだ。4月1日付で日本代表コーチに就任するため、東京へ向かう日が近づいていた。既に辞表を出したとはいえ、教え子を亡くし古里も傷ついたというのに…。「地元に残って復興の手助けをするべきではないのか」

<周囲に背中押され>
 そんな時、周囲の人々は背中を押してくれた。「今、あなたにしかできないことをやりなさい」。葛藤の末、約半月遅れて、独り気仙沼を離れた。
 チーム合流後、意外な展開が待っていた。当時コーチのアンドレア・マグロから現役復帰を打診された。ロンドン五輪出場権獲得のため、菅原の経験と実力が必要だという。
 自身、ピスト(試合用コート)に未練はなかった。北京五輪後は「フェンシングを突き詰めることができた」と感じた。それでも「必要とされているのなら」と復帰を決意した。
 当時35歳。練習では息が上がった。苦しくなると非常事態の古里を思い、自らを鼓舞した。12年3月、ロンドン五輪の切符を獲得。会見では涙ながらに「地元の方々に少しでも笑顔を与えられたら」と語った。その言葉通り、北京五輪に続き女子フルーレ個人7位入賞を果たす。

<努力が男子に響く>
 菅原の頑張りは男子にも伝わったかのようだった。フルーレ団体で銀メダルを獲得した代表メンバーの一人、千田健太(30)=阿部長マーメイド食品、宮城・気仙沼高−中大出=は振り返る。「男子も負けられないという気持ちが芽生えた。いい流れをもらった」と。
 あれから4年がたとうとしている。菅原の心が完全に晴れたわけではない。「五輪出場を喜んでいただいたが、地元で復興に携わっている方々の方が(頑張りは)何倍もすごい」と言い、いまだ自分の力不足を思う部分もある。
 とはいえ、男子の団体メンバーと共に凱旋(がいせん)した気仙沼でのパレードが忘れられない。地域の人たちに少しだけ褒めてもらったような気がする。笑顔の記憶こそが菅原を支える糧になっている。(敬称略)


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2016年03月09日水曜日


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