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<菅原智恵子>恩師の夢をかなえる

アテネ五輪に出場した時の菅原(右)と千田=2004年8月

◎敗れざる人(4)五輪出場

 菅原智恵子(39)=宮城県気仙沼市出身=は地元の条南中でソフトボール部に所属した。小学時代から走ることが好きで、運動能力が高かったという。条南中の体育教師で、この少女を間近に見ていた千田美穂子(58)こそが、菅原とフェンシングを結び付ける。
 千田の夫は菅原が進学した宮城・鼎が浦高(現気仙沼高)フェンシング班顧問で、1980年モスクワ五輪代表の千田健一(59)=宮城・気仙沼向洋高校長=。菅原が高い身体能力と強い気持ちを併せ持つことを聞き、熱心に勧誘した。
 健一は五輪に対して苦い思い出があった。自身、日本代表に選ばれながら、ソ連のアフガニスタン侵攻により日本がボイコット。「五輪代表になった証しは1枚の認定書だけ。欲しかった赤いブレザーはもらえなかった」。政治に翻弄(ほんろう)され25歳で日本代表を退き、地元に戻って高校教諭となった。「五輪に出場できる選手を育てたい」という夢を持っていた。
 菅原は迷った末、剣を握ることを決めた。

<早速 非凡さを発揮>
 練習は下半身の強化など、基礎を徹底的にたたき込まれた。「何だこれは、という感じだった」。この強固な土台づくりが後に日本フェンシング界に新たな歴史を刻む。
 1年時の試合で早速、非凡さを発揮した。0−4と後がない状況に追い込まれながら、「前に行くことしか教わっていなかったので」と攻めの姿勢を貫き、5−4で逆転勝ち。戦術を変えずに挽回したことに健一は「気持ちが折れない子。ただ者ではないと確信した」と振り返る。
 チームの目標は常に日本一。厳しい練習に菅原は前向きな姿勢で臨んだ。「『こうしたらどうか』と指導すると、普通は『はい』で終わる」と健一。ところが菅原は「こうやってみましたが、どうでしたか?」と返してくる。

<駆け引きを教わる>
 剣技の駆け引きと奥深さを教わり、力を付けた。3年時に主将も務めた。同級生で副主将だった斉藤冨美子(39)=気仙沼市=は「智恵子はフェンシングに対してとてもストイック。一番の怒られ役なのに、持ち前の明るさでチームをまとめてくれた」と回想する。
 菅原は2004年、ついにアテネ五輪に出場。2回戦で敗退したが、恩師の夢をかなえた。「幻の五輪代表」のためか五輪をどこか斜めに見るようになっていた健一は、独特な雰囲気の中で戦う教え子の姿を見て、ようやく「五輪」と和解できたような気がした。
 「菅原には感謝している」と健一。「鼎が浦高に足を踏み入れて人生が変わった」と菅原。2人の夢の間に縁と剣があった。(敬称略)


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2016年03月10日木曜日


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