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<震災5年>故郷の誇り胸に挑む 生島淳

生島淳(いくしま・じゅん)67年、宮城県気仙沼市生まれ。著書に「エディー・ジョーンズとの対話」「箱根駅伝」「気仙沼に消えた姉を追って」など。早大卒。

 5年がたったいまも、「あの日」のことを思い出す。私の姉は津波に流された。その前に、家に電話をくれていた。姉と話せていたら−と思う。
 『悼む人』などで知られる直木賞作家・天童荒太氏と対談した際、天童氏は大震災を生き残った人たちが感じる罪悪感を「サバイバーズ・ギルト」と表現した。
 生き残ったことに対する罪の意識。
 現在、フェンシング日本代表のコーチを務める菅原智恵子さんも、その意識を感じていた。
 菅原さんは当時、気仙沼高校の教壇に立っていたが、2011年の3月で教職から退き、代表コーチとしてフェンシングの現場に戻る予定だった。
 しかし、あの日がやってきた。
 「4月には東京に出てきてしまい、気仙沼で復興に貢献できていないことに罪悪感がありました。教え子たちは気仙沼で頑張っている。私はフェンシングをしていていいのだろうか、と」
 気仙沼で鍛えられた剣はさびついてはいなかった。程なくコーチから現役へ復帰。12年には3度目の五輪代表となる。
 「五輪前の壮行会、終わってからのパレードでは、気仙沼がひとつになった感じがあったのがうれしかったですね。私がフェンシングを続けた結果、故郷が盛り上がる。報われた思いがしました」
 11年春の決断は正しかったのだ。
 気仙沼は、フェンシングについては奇跡の町だ。菅原さんは幻のモスクワ五輪代表、千田健一さんの教えを受けた。戦後、世界に通じるコーチングが小さな三陸の港町に脈々と受け継がれていた。
 そして今、菅原さんは日本代表のコーチとして、リオ、その先の東京五輪を目指す選手をつくる立場にある。
 「地方の指導者の方に『世界のトップと、日本のコーチングは何が違うんですか?』とよく質問されます。実は、日本の指導は根本的に世界に通じます。足をつくる。粘る。勝負強さを鍛える。それは世界と戦える武器になるんです」
 それどころか、気仙沼の教え子が代表級の選手たちに勝っているところさえあると感じる。
 「この試合で決着がつく、という時の精神力。私は気仙沼高校の選手を信頼して送り出しました。同じことを代表でできるかどうか。これからの私のチャレンジです」
 断腸の思いで故郷を後にしたからこそ、新たな挑戦を手に入れることができたのだ。
 「サバイバーズ・ギルト」とうまく付き合うためには、スタイルはどうであれ、納得できる生き方を進むのがいちばんだ。
 コーチとしての人生は始まったばかりだ。菅原さんの成功は、故郷の誇りへとつながっている。(スポーツライター)


2016年03月12日土曜日


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