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<アーカイブ大震災>園児の命 脚立が救う

海上保安庁のレスキュー隊に救助される石巻みづほ第二幼稚園の園児ら=2011年3月12日午前11時40分ごろ、宮城県石巻市新館2丁目(海上保安庁提供)
現在は他の施設を利用し、使われていない石巻みづほ第二幼稚園。煙突のあるボイラー室(中央)の上に脚立を立て、園児らが園舎の屋根に逃げた=2011年8月3日

 宮城県石巻市の石巻工業港に近い石巻みづほ第二幼稚園(同市新館2丁目)では、東日本大震災による津波が園舎2階まで達した。津波の襲来前、周囲の道路は避難しようとする車で渋滞し、近くに高い建物もない。児童と職員は園に残るしか、すべがなかった。園にあった一つの脚立が園児ら全員の命を救った。

◎逃げる その時U(2)屋根へ(石巻みづほ第二幼稚園)

 ラジオは床に落ちて壊れた。防災無線や携帯電話のワンセグで情報を得ようにも、断片的な言葉しか伝わってこない。「津波」「午後3時○○分」「鮎川」「9メートル」…。
 2011年3月11日、地震の発生時、園には預かり保育の3〜5歳の13人と職員11人が残っていた。鉄筋2階の建物に大きな被害はなく、園長の津田広明さん(71)らは2階に子どもたちを集め、保護者の迎えを待った。
 しばらくして、保護者が迎えに来て園児2人が帰っていった。
 「本当に大津波が来るのか」。海の水が引く様子もなく、津田さんは半信半疑だった。
 園は工業港の岸壁からわずか約200メートル。津田さんは「津波」「9メートル」の言葉が脳裏から離れなかった。念のため屋根に上る脚立を用意しておくよう、職員に頼んだ。
 園舎2階からは工業港を横切る「臨港道路」と大街道方面に向かう「工業港通り」が見える。ともに4車線の道路は渋滞が激しくなっていた。
 臨港道路より数メートル低い園の周囲には住宅や商店が立ち並び、高い建物はない。送迎バスで遠くに逃げるか―。「いや無理だ」と津田さんは思った。園に着いた保護者も車での避難を諦めた。

 「津波が来たっ」。教頭の佐藤順子さん(52)は職員のうわずった声を覚えている。反射的に海の方を向くと、工業港の方から濁流が猛スピードで迫ってくるのが見えた。
 園庭にいた職員(33)が証言する。「津波は電柱を覆うほどの高さだった」
 職員らは廊下に机を並べて踏み台にし、園児を窓から、棟続きのボイラー室の屋根に移動させた。さらに普段は二つ折りで使う脚立を真っすぐに伸ばし、約3.5メートル上の園舎屋上に立てかけた。
 ズボンをつかんで園児を脚立に載せ、屋上から職員2、3人が引っ張り上げた。脚立はほぼ垂直で、途中は園児の力だけが頼り。泣きだす園児もいた。
 最後に残った職員が脚立に手を掛けた時、水はボイラー室の屋根までひたひたと迫っていた。
 園舎屋上の三角屋根の上で、子どもたちは肩を寄せ合った。周囲の家が次々と流されていく。「これ以上、高い波は来ないで」。佐藤さんらは祈るような気持ちで、海を見詰めるしかなかった。

 水が引き始めたのは午後7時ごろ。全員が2階に戻った。がれきが流れ込み、床は泥だらけ。壁には高さ約1.5メートルまで津波の跡が残っていた。
 携帯電話がつながった職員がいた。また津波が来るという。再び屋根に上った。体操用マットを風よけにして寒さをしのいだ。午前2時すぎ、2階に戻った。
 園児と職員は翌12日午前、海上保安庁のレスキュー隊に救助され、仙台湾上の海上自衛隊の護衛艦に収容された。
 園には震災当時、約140人の子どもたちが通っていた。園に残っていた11人は間一髪で難を逃れたが、既に帰宅していた7人が津波に巻き込まれ亡くなった。地震後、保護者に引き取られた1人も犠牲になった。
 津田さんは振り返る。「園児が100人以上残っている時間帯だったら、どうなっていたか。全員が屋根に上ることは不可能。屋根より高い津波が来たら、それこそ終わりだった」(大友庸一)=2011年8月19日河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 5年の節目に際し、一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2016年03月16日水曜日

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