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<アーカイブ大震災>徒歩避難の自主防災浸透

国道45号沿いの釜石市両石地区。車で避難する住民が少なかったことが犠牲者の少なさにつながった=2011年8月4日

 2010年2月のチリ大地震津波で、地区を通る国道45号が渋滞した岩手県釜石市両石地区では東日本大震災の直前、自主防災組織が避難時の車の利用を制限する方針を固めていた。具体的な内容の周知は間に合わなかったものの、住民に考え方は伝わっていた。援助が必要な高齢者らを運ぶ人以外は車での避難を自主的に控え、人的な被害の低減につながった。

◎逃げる その時U(4)車の利用制限(釜石・両石地区)

 「悪夢のようだ」
 釜石市両石町自主防災会会長の瀬戸元さん(66)は2011年3月11日、避難した高台で、津波の襲来をビデオカメラに収めながら思った。
 両石地区に津波の第1波が到達したのは午後3時10分ごろ。続けて襲った第2波は、両石漁港の高さ10メートルの防潮堤を軽々と越えて押し寄せた。
 国道45号には津波襲来の直前まで、避難者の車が往来していた。両石漁港の防潮堤が視界を遮り、ドライバーは津波に気付かない。多くの悲劇が目の前で起きた。
 海抜約40メートルの小高い場所にある両石公園で海を眺めていた主婦久保久美子さん(57)は「他の地区の人だろうが、車で波の方へ向かって走っていた。見ていられなかった」と当時を振り返る。

 津波はピーク時で25メートル近くに達した。押し波と引き波が交錯する。家屋は音を立てて崩れ、流されていく。流失を免れたのは地区内の約250世帯のうち、10世帯ほどにすぎず、漁港沿いに走る国道45号も約300メートルにわたって流失した。
 地区外の住民は車に乗ったまま犠牲になった人が少なくないが、両石地区の住民は車の利用を控えた。住民のうち約100人は徒歩で両石公園に避難。歩行困難な高齢者は、軽トラックで高台に運んだ。
 瀬戸さんは「車の利用は、要援護者を運ぶだけにとどまった」と語る。背景には、震災前の取り組みがあった。

 昨年2月のチリ大地震津波。国道45号は交通規制も加わり、避難者の車で大渋滞となった。
 地区住民約600人のほぼ半数は、65歳以上の高齢者だ。「もし津波が襲っていたら、多くの人が逃げ遅れていた」
 危機感を強めた住民は昨年12月、自主防災組織「両石町自主防災会」を設立。あらためて津波対策を検討し、こんな方針を決めた。
 「車の利用は、歩行困難な高齢者や要援護者を運ぶため登録した車に限定する」「ほかの住民は指定した高台に徒歩で避難する」
 具体的には、地区を10〜25世帯ごとの12班に分け、1班当たりの登録車を2台ほどに制限する内容。4月1日の防災会総会で正式決定し、周知を図る予定だった。

 東日本大震災の津波は地区の新たな取り組みの開始を待ってくれなかったが、住民はこう口をそろえる。
 「登録車を決めることまで、みんなが知っていたわけではないが、車の利用を制限する防災会の考えは伝わっていた」
 防災会と町内会が繰り返し、車での避難が危険なことを広報紙などで訴えていたためとみられる。
 地区の目の前の両石湾は、太平洋に向かってV字型に広がる。この地形が明治三陸大津波(1896年)や昭和三陸津波(1933年)で、大きな被害をもたらした。
 特に明治三陸大津波では、当時の地区人口の9割に上る約820人が亡くなった。
 東日本大震災での両石地区の死者・行方不明者は計約40人。多くは地区で申し合わせた避難場所にたどり着きながらも、想定を超える大津波にのまれ、犠牲になった人たちだったという。(山口達也)=2011年8月22日河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 5年の節目に際し、一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2016年03月19日土曜日

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