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<被災校舎の行方>記憶風化させぬ「壁」

神戸市長田区から移設された「神戸の壁」。同じ公園内にある野島断層とともに震災を今に伝えている=1月16日

◎石巻・震災遺構を考える(8)阪神大震災

<当初は姉も反対>
 災害の痕跡をとどめる建造物を残すかどうか。1995年の阪神大震災の被災地でも、住民らの複雑な感情が交錯した。
 兵庫県淡路市の北淡震災記念公園にコンクリートの防火壁が立つ。「神戸の壁」と呼ばれ、阪神大震災の数少ない遺構の一つだ。大火に耐え、神戸市長田区から移された。
 壁の元所有者で保存に同意した山下都子さん(63)=神戸市中央区=が語る。「形ある物として残すことができて、今は良かったと思う。見る人の心を打つ力が映像や写真とは違う。理解のある方々の縁がつながって保存できた」
 95年1月17日。壁に隣接していた山下さんの実家を猛火が襲い、父浅吉さんと母としゑさんが犠牲となった。両親亡き後、焦げ跡が残った壁の所有者は山下さんと姉2人となった。「見ると涙が出る」などと2人の姉は保存に反対だった。
 現地では震災前から再開発が計画されていた。「被災者の生活再建が優先。壁に何の価値があるのか」。まちづくり関係者からは、そんな声も漏れた。
 山下さんの心は揺れた。「保存すれば、残す必要はないと両親に怒られるんちゃうか」。それでも、壁の保存活動に取り組む人々の熱意に突き動かされた。
 「壁は震災の語り部。記憶を風化させたくないし、防災のためにも必要だ」。山下さんらは壁の公費解体延長を市に要請し、認められた。旧津名町(現淡路市)が受け入れることになり2009年、北淡震災記念公園に移設された。
 山下さんは震災後、鬱(うつ)を繰り返してきた。不意に気持ちが沈み、寝込む。1月17日が近づくと胸が締め付けられる。
 保存活動が元気の源でもあった。今では2人の姉も壁を残した意義を理解してくれている。
 「悲しみを乗り越えるのは難しい。未来のために間違ったことはしていない、と自分に言い聞かせてきた。壁は今、多くの人に見てもらえる」

<心の傷癒えずに>
 震災から20年がたった15年1月。コミュニティーづくりを支援する長田区のNPO法人「まち・コミュニケーション」で震災体験を語ってきた男性が世を去った。寺田孝さん、75歳。震災で当時30歳の長女を失った。
 長女がいたアパートは火災で焼け崩れた。長女の住まいが残っていたとしても、遺構の保存には「悲しみが鮮明になる」と否定的だった。
 大切な人の死にかかわる震災遺構の保存・解体は、長く突き付けられてきた課題だ。
 まち・コミ理事の田中保三さん(75)は「寺田さんは最期まで、娘を亡くした心の傷が癒えなかったやろな」と察して訴える。
 「神戸では人の心など目に見えないものへの対策が手薄だった。もっと丁寧に気持ちをすくい取り、教訓の伝え方や遺構の在り方を考えるべきだったのではないか」
          ◇         ◇         ◇
 東日本大震災で被災した宮城県石巻市大川小、門脇小の両校舎を残すのかどうか、遺族や市民の意見が割れている。保存を求める声、解体を望む人、または、そのはざまで揺れる思い。亀山紘市長は今月中に保存の可否を判断する。震災遺構について考える。(石巻総局・水野良将、高橋公彦)


2016年03月21日月曜日

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