岩手のニュース

<アーカイブ大震災>最大余震 内陸へ殺到

避難する住民の車で大渋滞が発生した仙台市太白区の四郎丸、袋原地区の地図。名取川と国道4号仙台バイパスに囲まれた地域に約2万9000人が住む。津波浸水範囲は国土地理院の調査より

 2011年4月7日深夜、宮城県沖を震源とするマグニチュード(M)7.1の地震が発生し、宮城県沿岸部に津波警報が出された。東日本大震災の最大余震だった。そのとき、仙台市太白区四郎丸など国道4号仙台バイパスの東側は、内陸部へと避難する住民の車で大渋滞となった。3月11日の津波で、壊滅的な被害を受けた名取市閖上に隣接する地域。「今度はここまで到達するのでは」。住民は不安に駆られていた。

◎逃げる その時U(6)深夜の大渋滞(仙台南東部)

 4月7日午後11時32分すぎ。仙台市南東部の住宅街で、車のエンジンの始動音が一斉に上がった。
 東四郎丸小の近くに住む無職阿部健二さん(68)は揺れが収まった後、不安になった。「閖上が震災でやられ、遮るものがない。今度はここまで津波が押し寄せるかも」
 避難を決め着替えていると、近所の車が次々と走り去った。ラジオは津波警報の発令を伝えていた。阿部さんは妻(64)、次女(36)の3人で車に乗り込み、国道4号仙台バイパスの西を目指した。
 阿部さんの約500メートル西に住む農業菅井よしいさん(65)も「海側に引っ掛かるものが何もないから、早く逃げないと」と考えた。夫(70)と車でバイパス方面へ向かった。
 四郎丸の住民が津波を警戒したのには、理由がある。名取市閖上地区をのみ込んだ3月の巨大津波は、仙台東部道路の下を横切る道路や通路を伝って集落のすぐ東まで到達。名取川を逆流し、堤防からあふれそうになった津波を見た人もいる。
 あの日まで遠い存在だった津波は、間近に迫る脅威に変わっていた。

 一刻も早く海岸から離れる―。教科書通りの避難行動だったが、ほとんどの住民が車を使ったため、付近の道路は大混乱に陥った。
 阿部さんは、自宅を出て100メートルほどで渋滞にはまった。進む気配は一向にない。仕方なくUターンし、細い路地を通って袋原中へ避難した。
 地震直後に出発した菅井さん夫妻も、渋滞に巻き込まれた。よしいさんは「ノロノロとしか進めない。津波が来たらどうしようと、もどかしかった」。
 10分ほどかかって宮城社会保険病院にたどり着き、急いで病院内に逃げ込んだ。病院には次々と車がやって来た。
 仙台南署東中田駐在所長の佐藤宏警部補(54)は「駐在所前の丁字路交差点が、西へ向かう車で大混雑した。みんな不安そうな表情だった」と証言する。北と南の両方向から、内陸へ避難しようとする車が殺到。交差点ではクラクションが飛び交った。

 住民が続々と避難してきた四郎丸小と袋原中では、別の問題が発生した。深夜のため教職員は不在。校舎は施錠されていて中に入れず、玄関付近に人だかりができた。
 「高い所へ逃げたかったが、鍵が開いていなくて少し焦った」。四郎丸小に避難した主婦小出琴子さん(63)は語る。ある男性が、やむなくガラスを割って鍵を開けると、避難者は一斉に屋上へ移動した。
 施錠されていた袋原中でも、住民がガラスを割って鍵を開けた。校舎内に避難はできたが、侵入警報のベルが鳴り続けていたという。

 ほとんどの住民が在宅する時間帯に出された津波警報。周囲の様子を確かめにくい夜間ということも、不安をかき立てる要因となった。結局、津波は観測されなかったものの、四郎丸の混乱は都市部の避難の難しさを教える。
 仙台市教委はこの余震後、夜間や休日の災害に備え、沿岸部の小中学校22校の合鍵を町内会などに配布。教職員が駆け付けなくても校舎に入れる手だてを講じた。
 東四郎丸町内会は余震の混乱を踏まえ、高い建物への避難を訴える。「遠くより高い所へ」とのキャッチフレーズを掲げ、近所にある鉄筋コンクリート造りの市営住宅などへ一時避難するよう呼び掛けている。(末永智弘)=2011年8月24日河北新報
          ◆         ◆         ◆
 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 5年の節目に際し、一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2016年03月22日火曜日


先頭に戻る