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<アーカイブ大震災>通信網断絶 避難に障害

津波に襲われた宮城県岩沼市沿岸部。住民に避難の呼び掛けは届きにくかった=2011年3月14日、岩沼市早股

 2010年2月のチリ大地震津波で、宮城県岩沼市は宮城県内で最も公的避難所への避難率が高かったにもかかわらず、2011年3月の東日本大震災では184人もの死者・行方不明者が出た。歴史的に津波の経験が少なく、チリ大地震津波でも大きな被害がなかったという油断に加え、情報通信網の断絶などが複合的に重なり、多くの人が逃げ遅れる結果となった。

◎逃げる その時U(7完)防災無線は整備途上(岩沼市)

 「避難だよ」。3月11日午後3時20分ごろ、岩沼市相野釜地区の町内会長中川勝義さん(72)は隣家に住む兄熊雄さん(83)に呼び掛けた。
 1階の茶の間で散乱した家財道具を片付けていた熊雄さんは、逃げるそぶりを見せない。中川さんの家族が数分後にも再度注意したが、やはり動かなった。熊雄さんは妻ちよさん(82)とともに津波の犠牲になった。
 相野釜地区では、市沿岸6地区の中で最も多い43人が亡くなった。消防団員、消防協力隊のメンバー6人も、ポンプ車や乗用車で高齢者に避難を促しているさなか、津波にのまれたとみられる。
 岩沼市史などによると明治三陸地震(1896年)、昭和三陸地震(1933年)、チリ地震津波(1960年)でも市内は津波の被害をほとんど受けていない。
 中川さんは「昨年のチリ大地震津波の際も、あれだけ騒いで仙台空港に避難したが津波は来なかった。私自身、今度も来ないと思っていた」と住民の気持ちを代弁する。

 37人の犠牲者が出た長谷釜地区。町内会会計を務める斎市雄さん(59)は3月11日、地区内の民家の下水道工事をしていた際に激しい揺れに襲われた。「並の地震ではない」。すぐに避難誘導に取り掛かった。
 外に集まりだした地域住民ら十数人を町内会役員の車3台で搬送。指定避難場所の玉浦小に午後3時15分ごろに到着し、さらに市中心部にも回った。午後3時50分ごろ、再び長谷釜に戻ろうとしたが、沿岸部に向かう道路は封鎖されていた。
 車内のテレビからは、約5キロ北にある仙台空港を津波が襲う映像が流れていた。「この様子ではもう長谷釜も駄目だ。もっと多くの住民を救いたかった」。津波の急襲に対応しきれなかったことを斎さんは悔やんだ。
 避難活動で重責を担う町内会役員たちを何よりも惑わせたのは、テレビや電話など情報通信網の途絶だ。斎さんは他の町内会役員に何度も連絡を試みたがほとんど通じることはなく、組織的な活動を封じられた。

 宮城県内に初めて大津波警報が発令された昨年2月のチリ大地震津波の際、岩沼市民の公的避難所への避難率は22.0%と、県内沿岸15市町の平均6.6%を大きく上回った。
 市防災課は(1)コミュニティーFMを通じた避難呼び掛け(2)町内会役員への津波情報の伝達、避難広報(3)広報車の出動(4)自主防災組織を通じた各戸訪問―が機能したためと分析している。
 しかし、被害がなかった昨年の経験が今回の油断につながった面が否めず、市の情報伝達などの防御策も巨大地震の後には機能しなかった。
 市は沿岸部に防災無線を整備中だったが、運用開始は4月からの予定で大惨事に間に合わなかった。昨年のチリ大地震津波では、体制整備の遅れを地域の連帯や行政のマンパワーで補うことができたにすぎない。
 中川さんは「今回逃げなかった人たちの多くには警報が届かなかった可能性が高い。電源も途絶える中、ラジオをまともに聞ける環境にあった人がどれだけいただろうか」と話す。
 斎さんも確信したという。「いち早く住民に危険を知らせるには、防災行政無線が必要だ」(小木曽崇)=2011年8月25日河北新報
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 2011年3月11日の東日本大震災発生以来、河北新報社は、被災地東北の新聞社として多くの記事を伝えてきた。
 とりわけ震災が起きた年は、記者は混乱が続く中で情報をかき集め、災害の実相を明らかにするとともに、被害や避難対応などの検証を重ねた。
 中には、全容把握が難しかったり、対応の是非を考えあぐねたりしたテーマにもぶつかった。
 5年の節目に際し、一連の記事をあえて当時のままの形でまとめた。記事を読み返し、あの日に思いを致すことは、復興の歩みを促し、いまとこれからを生きる大きな助けとなるだろう。


2016年03月23日水曜日


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