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<五輪栄光と挫折>絶望経験 見えた優しさ

全日本の中心選手として活躍していた今野さん。まな娘の七海(ななみ)ちゃんを抱きながら笑顔を見せる

◎シドニーと北京 出場まであと一歩/バレー女子 今野恵さん

 あと一歩を2度も味わった。「私には縁がなかった」。バレーボール女子の元日本代表の今野(旧姓板橋)恵さん(42)は五輪をそう表現する。
 翌年にシドニー大会を控えていた1999年、初めて代表に選ばれた。「目の前のチャンスを逃したくない。毎日が必死だった」
 出場権を懸けた世界最終予選。日の丸を背負いながら、コートに立つことはなかった。チームは女子バレー史上初めて出場権を逃した。代わりに正セッターを務めた竹下佳江が批判される事態になり「私が力になれなかった」と歯がゆい思いをした。
 「長くはできないと思っていた。もうチャンスはない」と一度、第一線から離れた。地元テレビ局の企画を縁に親交のあった陸上女子800メートルの元日本記録保持者、岡本久美子さん(仙台西高教)と一緒に過ごす時間が増え「もう一度頑張りたい」と奮い立った。
 2005年、代表に復帰。07年まで選ばれていたが、08年の北京大会で日の丸を背負って夢の舞台に立つことはかなわなかった。
 「私のためのオリンピックではない。期待してくださった方に申し訳ない」。自分を第一に考えていた20代と、人に力を与えたいとプレーした30代で味わった悔しさ。年を重ね、経験を積んだ分、2度目のあと一歩は少し違う感情だった。
 小学3年で競技を始めた。テレビでも見るくらい好きだった。でも、シドニーから北京までの3大会だけは「いろいろな思いがあって、残るものがあって、見られなかった」。「行きたかった、つかめなかった」という無念さは簡単に鎮まらなかった。
 全てはバレーボールが教えてくれたと感謝する。「嫌な思いをしても、その分人に優しくなれる。五輪に挑戦できる機会を頂けたからこそ、そう考えられるようになった」。まな娘を抱きながら自らに言い聞かせた。

[こんの・めぐみ]旧姓板橋。73年、宮城県大和町生まれ。宮城・古川商高、東北福祉大を経て96年、日立佐和に入団。99、2000年と05〜07年に日本代表に選ばれた。09年、パイオニアに入り11年6月に退団。同年11月、仙台ベルフィーユの監督に就任。選手兼任で現役を引退する12年3月まで所属した。15年9月、第1子の長女を出産。仙台市泉区在住。
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 例えば1964年の東京五輪。男子マラソンの円谷幸吉(須賀川市出身)は陸上界で戦後初のメダルをもたらし、柔道無差別級の神永昭夫(仙台市出身)は優勝を義務づけられながら決勝で敗れた。2人は戦後スポーツにおける栄光と挫折の象徴的な存在と言っていい。東北のアスリートにとって大舞台とは何か。縁のなかった選手も含めて「わたしの五輪」を聞いた。(剣持雄治)


2016年04月27日水曜日


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