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<楽天 栗原健太>プロ目標に二人三脚

日大山形高時代は1年秋から4番に座り続けた。推定飛距離140メートルの場外本塁打を放つなど打力は群を抜いていた
渋谷良弥監督

◎再起への道 ルーツ編(下)恩師と出会った高校時代


<すぐレギュラー>

 「天童二中にすごい投手がいる」。1996年春、日大山形高の渋谷良弥監督(69)=現山形商高監督=の耳にうわさが入った。試合を見にいくと、体つきが他の選手と一回りも二回りも違う栗原がいた。投球より、力任せではない打撃センスの良さが目を引いた。
 関係者の間では、親戚と同じ東海大山形高に進むとみられていたが、指をくわえているわけにはいかない。「実家の焼き肉屋には何十回も通った。もちろん客としてですよ」。本人への接触や家庭訪問はできないのが高野連のルール。ぎりぎりの線で熱意を示した。
 「将来、絶対にプロに行く。お前はそのつもりで練習しろ。俺もそのつもりで鍛える」。体の硬さから投手では大成しないと見て、野手転向を命じた。部員約100人の強豪校で、入学後すぐレギュラーにした。
 渋谷監督は他の選手の倍は三塁へノックを浴びせた。栗原は部活後も自宅でバットを振り、手のひらをいつもまめだらけにした。2年秋からは、言葉より背中で引っ張る主将となった。
 全国の舞台は2年夏の甲子園大会だけ。3年の夏は山形大会準々決勝で酒田南高に敗れて終わった。試合中盤、投手陣が打ち込まれると、栗原は三塁からベンチに向かって肩をぐるぐると回したという。「俺に投げさせてくれ、という目でね。投手に未練があったんだね」と懐かしがる。

<珍しく弱音吐く>

 秋、高校通算39本塁打の強打者はプロ10球団がマークした。2年時から視察していたヤクルトはドラフト会議の2日前、4位指名を内々に伝えた。いざふたを開けると「広島3位」。6位での指名を狙っていたが、情報戦の末に順位を繰り上げたのが事のいきさつだった。
 プロ入りに際し、渋谷監督が心配したのは性格面だった。「東北の子は関東や関西から野球留学してきた生徒と比べて、おとなしい」。プロの世界はライバルを蹴落とすぐらいの我の強さが必要だ。「優しい健太はやっていけるのか」
 プロ入り後、栗原はしばしば電話してきた。「監督さん、もう駄目です」。高校時代はきつい練習にも音を上げることがなかった。珍しい弱音の中にプロの厳しさを感じ取った。だが、心を鬼にした。「ばか野郎、ふざけるんじゃない。もっと(バットを)振れ」。3年目には1軍でも徐々に出番が増えた。愚痴の電話はぱたりと止まった。
 卒業から16年たっても、毎年年末に食事を共にする。2軍調整が続くまな弟子に、恩師は歯がゆさを隠さない。「年齢的にあと3、4年はやれるはずだ。山形で2軍戦はあるけど、1軍戦で活躍しないと地元のファンは納得しないよ」。大きな期待ゆえに厳しい言葉になる。その師弟関係は何年たっても変わらない。


■栗原のひとこと

 「プロに行く土台をつくってくれた恩師です。褒めてもらえたのは1年の夏まで。その後はとにかく厳しかったです。何とかプロにさせてあげたい、という愛情があったのだと、いまは感じています」


2016年05月21日土曜日


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