岩手のニュース

<津波宿命の地で>初の遺構で教訓伝える

父が建て、震災遺構になった「たろう観光ホテル」を仰ぎ見る松本さん

◎明治三陸大津波120年(上)宮古・田老

 約2万2000人が犠牲になった1896年6月15日の明治三陸大津波から、120年がたった。三陸沿岸はこの間、昭和三陸津波、チリ地震津波、東日本大震災と悲劇が繰り返された。津波という宿命を背負った地で、どう生きるか−。刻まれた歴史と向き合い、後世に残そうとする人たちがいる。当時、被害が甚大だった岩手県の3地区を訪ねた。

<一族へ戒め>
 「津波に対する意識が風化していた。建物を残すのは、そんな一族と自分への戒めという面もある」
 東日本大震災の津波で被災し、震災遺構となった宮古市田老地区の「たろう観光ホテル」。経営していた松本勇毅さん(59)は打ち明ける。
 津波被害のたびに、喪失と再興を繰り返した田老地区。それは、代々続く家族の歴史に重なる。
 松本さんの曽祖父勇吉さんは明治三陸大津波で一家7人が亡くなった分家を継ぎ、その場所に家を建てた。高台生まれで津波の恐ろしさを知らない。教訓を伝える生存者も少なかった。
 1933年、昭和三陸津波が襲来した。家は流失したが、一家は助かった。
 復興途上で高台への集団移転案も浮上したが、当時の田老村は漁業の復活を優先し、現地再建の道を選んだ。そして「万里の長城」と称された高さ約10メートル、全長約2.4キロの巨大防潮堤の整備が始まった。
 松本さんの祖父勇蔵さんはその流れに逆らうように村外れの山を切り開いて家を再建した。「二度と津波に遭いたくない」と海から離れた。勇吉さんは一族が安全な高台で暮らし続けることを信じ、亡くなった。

<危険な場所>
 高度経済成長期に入り、地区の人口は増加。防潮堤は海側に拡張され、土地を求めた住民が流入した。
 松本さんの父栄太郎さんは72年、半農半漁の暮らしをやめ、2度の津波で被災した自宅跡地に旅館を建てた。道路整備が進み、観光客が右肩上がりで増えた時代だった。
 「なぜ今更、津波の危険がある場所に」。勇蔵さんは諭したが、栄太郎さんの耳には届かなかった。86年には6階建ての「たろう観光ホテル」を海側の防潮堤近くに開業した。
 勇蔵さんは数年後、栄太郎さんも2005年にこの世を去った。「少しでも暮らしを良くしたかったのだろう」。松本さんは父の思いを察する。

<想像超える>
 11年3月11日。そのホテルで松本さんは立ちすくんだ。濁流は最上階近くまで押し寄せた。
 「津波の恐ろしさは祖父や母から聞いていた。文献でも学んだが、現実は想像を超えていた」
 震災後、松本さんは田老で亡くなった人の行動を分かる範囲で調べた。手作りの表には、避難せずに家にとどまり、亡くなった人たちの名前が並ぶ。
 昨年、標高60メートルの高台にホテルを再建した。津波におびえ、家族を守ろうとした祖父勇蔵さんの気持ちがいま、痛いほど伝わる。
 「津波は必ずまた来る。田老の人々が、同じ失敗を繰り返してはならない」
 120年の悲嘆を経て、初めて誕生した震災遺構。世代を超えて教訓を伝えると、松本さんは信じる。
(宮古支局・高木大毅)

[メモ]旧田老町史によると、田老地区は明治三陸大津波で1859人が死亡。被災地域で生き残ったのはわずか36人だった。昭和三陸津波では住宅505戸が流され、911人が犠牲になった。東日本大震災では死者・行方不明者が181人を数える。


関連ページ: 岩手 社会

2016年06月18日土曜日


先頭に戻る