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<三宅義行>負けず嫌い 才能開花

自らの長年の歩みを振り返り「思い通りにいかなかった時に多くを学んだ」と語る三宅=東京・味の素ナショナルトレーニングセンター

 夏の日差しに緑が映える。宮城県村田町は蔵王連峰を望む風光明媚(めいび)な地域。「木登りや竹スキーで遊んだ。『ウサギ追いしかの山』ですよ」。三宅義行(70)が故郷に思いをはせる。

◎敗れざる人(2)必然/あんちゃんのようになりたい

<豊かな自然で培う>
 7人家族。父栄三郎は農作業をする傍ら、農閑期は東京へ働きに出た。母たけをは泣き言一つこぼさず、笑顔を絶やさなかった。戦後間もない時代、暮らし向きは楽でなかったが、義行は両親の背中を見て活発な少年に育った。
 豊かな自然は基礎体力を養ってくれた。中学校に実習田があり、収穫したコメを俵に入れた。同級生の吉野栄子(70)=村田町=は「(60キロの)俵を持ち上げられるのは、30人ほどいた男子の中で義行君を含め3人だけだった」と振り返る。
 義行が重量挙げを始めたのは宮城・大河原高(現大河原商高)1年の時。兄義信(76)=東京国際大ウエイトリフティング部監督=が1960年ローマ五輪で銀メダルを獲得したのに刺激された。「俺もあんちゃんのようになりたい」
 三宅家を少年時代にたびたび訪れた幼なじみの佐久間一郎(70)=村田町=は「義信さんにはバーベル代わりなんだろう。家にトロッコの車軸があって、それで義行君と遊んだことがある。義信さんに『触ると危ない!!』と怒られたもんだ」。
 重量挙げ。義行にとって、その道に入るのは必然といえた。
 大人になればなるほど、競技にのめり込んだ。持ち前の怪力と負けず嫌いな性格が非凡な才能をみるみる開花させていく。
 高校3年でインターハイ3位となり表彰台に上がった。進学先の法大では頂点だけを見据えた。「なれると信じた。『そうでないとおかしい』と」。1日延べ60トンを挙げ、練習は7時間に及んだ日もあった。

<体が悲鳴 今は感謝>
 発奮する理由があった。19歳の時、64年東京五輪で義信が金メダルを獲得した。「兄が世界チャンピオンだったから自分もそうなると見られた。周りはそれが当たり前と思っていたが、こっちは大変だったよ」
 ひたむきに練習に取り組む姿勢こそが義行と世界を結ぶ接点になったといえる。だが、代償は大きかった。過度な重量に挑み続けたため、体のあちこちが悲鳴を上げた。両ひじ、両ひざ、手首…。腰にはチタンが入っている。
 「120針以上を縫った。もう切る所はない」。痛みは今も癒えず、やや前かがみになって休まないで歩けるのは500メートルがやっと。「痛いのは生きている証拠だ」。額に刻まれた深いしわに手を添えながら苦笑いした。
 ぼろぼろになった体は全てを懸けて競技と向き合ってきた証し。「ウエートリフティングに出合ったから今日がある。人生そのもの。多くの方々に育ててもらったな」。この道一筋54年。今、感謝の思いに包まれている。(敬称略)


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2016年07月22日金曜日


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