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<三宅義行>諦めぬ姿勢こそ大切

メキシコ五輪後、仙台駅前で開かれた歓迎会に臨む(左から)三宅義信、義行、母たけを、父栄三郎=1968年11月

 兄弟で五輪メダリスト。しかも同階級。メキシコ五輪後、2人は名実ともにライバルとなった。

◎敗れざる人(4)信条/「失敗を繰り返し、多くを学んだ」

<兄のまねせず強く>
 「強くなりたいなら、俺のまねをすればいい」。重量挙げに夢を見ていた時代、三宅義行(70)=宮城県村田町出身=は兄の義信(76)=東京国際大ウエイトリフティング部監督=に言われた。
 義信は「6歳違うのでライバルという感じではなかった」と適度な距離感で接していたという。だが、弟にも意地がある。素直に兄のまねごとをするつもりはなかった。「早い話があまのじゃく。兄貴と違うことをして強くなりたかった」
 世界の頂点を目指す夢は同じでありながら、たどる道は異なった。いずれも宮城・大河原高(現大河原商高)に入学し、競技に励んだ2人を知る坂口政史(84)=宮城県ウエイトリフティング協会顧問=は義信を「『何くそ、やってやるぞ』と根性を前面に出す」とみて、義行を「闘志を内に秘めて努力するタイプ」と評す。
 弟が初めて兄に勝ったのは1970年の全日本選手権。義行は優勝し義信が2位。勢いに乗る義行は翌71年の世界選手権を制し、ミュンヘン五輪の前哨戦、72年プレ五輪でも優勝。しかし、このプレ五輪から帰国後、練習中に脚の靱帯(じんたい)を断裂した。

<栄光と対極の「味」>
 3カ月後には五輪選考会を兼ねた全日本選手権が控えていた。義行はけがから復帰するのがやっとだった。兄弟がエントリーしたフェザー級の出場枠は2。優勝したのは義信で、4大会連続で五輪切符を獲得。義行は3位で涙をのんだ。
 「勝負に負けて悔しいと思ったのは、あの時だけだった」
 義信は五輪に4度出場し、義行は1度。兄をしのぐ成績を残し始めたころにけがをし、金メダルが有力視されながら五輪出場を逃した。栄光と対極にあるものの味を知った。
 「失敗を繰り返した。そこから多くを学んできた」と義行は語る。「負けることで強くなった」とも。何を失い、何を得たのか。歩んだ道を振り返った時、決して諦めない姿勢の大切さが身に染みた。指導者として生きる今、その信条はいささかも揺るがない。
 2020年に東京五輪がやってくる。リオデジャネイロ五輪の女子日本代表監督を務める義行は「現場を少しでも強くしたい」と誓い、長女宏実(30)=いちご=ら代表チームの底上げに力を注ぐ。
 一方、長く世界に君臨し続けた義信は、老いらくの身になっても「大会を盛り上げたい」と競技に再挑戦し、今年4月のマスターズ・ワールドカップで銀メダルを獲得。「天才」の一端を見せた。
 かつて三宅兄弟と競い合い、64年東京五輪で日本人のメダル(銅)第1号となった一ノ関史郎(72)=秋田市=は、2人の生き方に刺激を受けている一人だ。「素晴らしい。大事なのは挑戦し続けること。私は私なりの生き方で人生の金メダルを目指したい」。秋田県職員を退職後は自宅で書道教室を開き、多くの子どもたちを教える。地域貢献、人材育成に汗をかく。
 「三宅兄弟」の名が今も輝きを放っている。(敬称略)


2016年07月24日日曜日


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