福島のニュース

<五輪栄光と挫折>努力の塊 代表あと一歩

練習の合間に、大八木弘明監督(右、会津若松市出身)と打ち合わせをする藤田コーチ。「自分が行けなかったからこそ、五輪で活躍する選手を育てたい」

◎体育「1」の少年日本記録を出す/マラソン男子 藤田敦史さん

 マラソン男子の前日本最高記録保持者は体育の通知表が「1」という運動音痴の少年だった。「自分にセンスはない。努力で戦うしかない」。気持ちの強さが、努力型を絵に描いたような競技人生を支えた。
 2000年12月の福岡国際で当時のマラソン日本最高記録を樹立。3カ月前にあったシドニー五輪金メダリストのアベラ(エチオピア)を振り切っての優勝。この快挙によって、目標が高くなり過ぎ、結果的に遠回りになってしまったランナー生活をたどる。
 「あの時は50キロでも走れる感覚だった。次は2時間5分台」と当時の世界最高記録を視野に入れた。今思えば「少し休んでおけば良かった」。
 常に故障との付き合いが続いた。「努力で上り詰めたので、休むことが怖かった。けがをしても自分が弱いから、とずっと思っていた」
 五輪を目指せる機会が3度ありながら、シドニー、04年のアテネは選考レースにすら出場できない。「さすがに2度目はもうやる気が起きなくなった。張っていた糸がプツッと切れた」。練習に姿を現しても歩くだけ。1カ月間は途方に暮れた。
 周囲の励ましの声も耳に入らない。結局、「自分が弱いからこうなった」。エリートでなかったから、再びはい上がれた。
 42.195キロの長丁場。勝つレースを思い浮かべながら準備を整えたから、走っていて楽しかった。でも、一つだけつらい記憶がよみがえる。
 北京五輪の選考となった07年の福岡国際。30キロ過ぎに遅れ出すと、「おまえは五輪に行けないよ」と聞こえた気がした。「勝てないのが分かっているのに、ゴールを目指さないといけない。きつかった」。最後のチャンスもつかめなかった。
 故障と付き合いながらの競技生活。「(練習を)うまくやれば五輪に行けたかもしれない」と思うことはある。ただ「積極的な練習をして結果を出そうと思っていた。私の最大の武器は努力の継続だった」。五輪でメダルを目指した過程に、一切の悔いはない。(剣持雄治)

[ふじた・あつし]76年、福島県白河市生まれ。福島・清陵情報高、駒大を経て、99年富士通に入社。同年8月の世界陸上マラソン男子で6位入賞。故障により2000年のシドニー五輪挑戦を断念。同年12月の福岡国際を2時間6分51秒で走り初優勝。当時の日本最高記録を樹立した。13年に現役を引退。その後、富士通のコーチを務め、15年4月に駒大のコーチに就任した。39歳。


2016年07月26日火曜日


先頭に戻る