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<あの時政治は>原発事故 県境で線引かれた

(左上から時計回りに)村井氏、細野氏、橋本氏、秋葉氏のコラージュ。背景は事故後の東京電力福島第1原発

 東日本大震災と東京電力福島第1原発事故の発生から、間もなく5年半になる。原発事故対応を巡り、宮城県の対策は福島県に比べて出遅れた。当初から顕在化した両県の支援格差は、県境に接する宮城県南部を中心に今なお、被災者を悩ませる。被害の実態ではなく、県境で線が引かれたのはなぜか。政治家たちへの取材ノートを読み返し、政治の結果責任を改めて考えた。(白石支局・瀬川元章)

<福島第1原発から最短で約45キロ、宮城県最南端の丸森町。2011年3月11日の東日本大震災で原子炉建屋の水素爆発が相次ぎ、20〜30キロ圏内に屋内退避指示が出る中、町内では空間放射線量の推移を把握できない状況が続いた。>

 県環境生活部の記録によると、県は3月14日に県南地域で測定を始めたが、町が調査地点に追加されたのは4月5日。既に大半の放射性物質が降り注いだ後だった。
 「なぜ丸森で検査しないのか」。町出身の自民党衆院議員秋葉賢也(宮城2区)の携帯電話には、古里の友から悲痛な叫びが続々と届いた。秋葉は県庁に掛け合うが、動きは鈍かった。東北電力女川原発を監視する県原子力センター(女川町)は、大津波をかぶって機能停止。そもそも他県にある福島第1原発への意識は皆無に等しかった。
 秋葉は「測定機器がある東北電力は県から要請を受ければ、いつでも検査に協力する姿勢だったが、県は『大したことない』という意識だった」と唇をかむ。
 丸森町や白石市の南部では、隣接する福島県の市町より空間放射線量が高い地点が散在した。県は当時、未曽有の津波被害への対応に忙殺されていた。結果的に、原発事故対応は後手に回った。
 「どうしてもやはり、県境という行政区分はあった」。民主党政権で原発事故担当相を務めた民進党衆院議員細野豪志は、県境で生じた格差を率直に認める。
 「永田町、霞が関から見た印象もあったと思う。物理的な距離があれだけ近いのに、見過ごされていたのが丸森や白石だった」
 事故直後、国と県の役割分担は曖昧だった。細野は自省を込めながら「国が直接やれる予算と、県に託す事業があった。まだ国の事業としてきちんと位置付けられず、県が基金などをつくって除染や測定をした時期があった」と指摘した。
 丸森や白石を抱える宮城3区の元民主党衆院議員橋本清仁は地元を歩き、地域を引き裂く原発事故の罪深さを肌で感じた。
 例えば、組織と個人。高齢者と子育て世代。橋本は「原発事故のイメージが付くのを恐れて消極的な対応を望む声と、福島と同じように積極的に対応してほしい声が交錯し、綱の引き合いだった。表と裏で違うことを言う首長もいた」と証言する。
 震災直後の大混乱で、市町村長の単独の要望は県や国に届きにくい状況が続いた。それがいつの間にか「沈黙は承認」に変容し、健康管理や賠償、除染いずれも福島側より遅く、不十分な結果をもたらした。
 白石市長の風間康静は「線はどこかに引くとしても、県境ではないだろう。実際の線量で引いてもらいたかった」と話す。
 同調圧力が強まる中、丸森町は独自に18歳以下の町民向けの健康調査に踏み切った。東京電力からは、妊婦と18歳以下を対象に精神的損害の賠償金を勝ち取った。
 町の動きに対し、細野や橋本は県を通さず、直接支援に動いた。震災復興特別交付税で予算を付け、東京電力と損害賠償を話し合う場を設けた。橋本は「消極的な勢力を敵に回してでも、放射能対策をやる覚悟を町が決めたから実現できた」と振り返る。

<賠償を巡る判断基準の一つにもかかわらず、県は原発事故で自主的に避難した県民の実態調査に腰を上げなかった。>

 原発事故から1年後の12年3月。衆院の東日本大震災復興特別委員会で、秋葉はこの問題を取り上げ、政府に見解をただした。
 文部科学相の平野博文は「自主的避難者数の把握を県に再三要求したが、県の方では把握していない、こういうことで(県とのやり取りが)止まる」と答弁。県の姿勢に困惑を隠さなかった。
 原子力損害賠償紛争審査会が11年8月に取りまとめた中間指針でも、農林水産物や観光業の風評被害への賠償で宮城、福島の県境が大きな壁となった。
 「知事は危機管理は的確だったが、原発には終始後ろ向きで、福島に巻き込まれずに風評被害を抑えたい意識があった。産業と命、どちらが大事なのか」
 松下政経塾、宮城県議と同じ階段を駆け上がり、知事村井嘉浩の「盟友」を自任する秋葉。それでも、原発事故対応に絡む村井の政治姿勢には疑問を投げ掛け、こう総括した。
 「放射能対策は、時の知事が誰かによっても変わる」
(敬称略)

◎村井宮城知事「国が要望を認めなかった」

 原発事故対策を巡り、「宮城県庁は後ろ向きだった」と複数の政治家が証言する。当時の状況を村井嘉浩知事に聞いた。

 −原発事故から5年が過ぎたが、県境が障壁となったのはなぜか。
 「震災があった11年の12月には、県境で区切るのはおかしいと県南6市町の首長と一緒に政府の現地対策本部に申し入れた。補償を求める上で、放射線量の数値基準をしっかり決めて、補償の差をつけるべきではないかと。全くおかしい対応だったと今でも思っている」
 −県の要望を国が認めなかったということか。
 「そういうことだ」
 −県の有識者会議が11年10月に示した「科学的・医学的な観点からは、健康調査の必要性はない」との見解に固執していないか。
 「国際機関の評価などいろいろと調べたが、どれを取ってみても、県がやらなければならない考え方は示されていなかった。額の多い少ないではなく、税金を1円でも使う以上は、根拠がないと駄目だ。最後に政治的な判断ということになれば、国で方針を示さないといけない。自治体で差をつけることはできない」
 −県内の自主的避難者数を把握しなかった理由は。
 「実は福島県も自主的避難等対象区域と避難指示等対象区域、これ以外では把握していない。宮城県南が補償のエリアになれば、当然調べたと思う。根拠がないのに調べられない」
 −原発事故対策にもっと人員を割き、政治的にアピールすべきだったのでは。
 「あまりにも津波の被害が大きかったので、やったことが表に出ていないだけ。県の対応が後手になり、何らかの混乱を生じたことはたぶんなかったと思う。あの時点での対応としては、私はちゃんとやれたのではないかと思っている」
 −県のトップとして原発事故を経験した教訓は。
 「事故前は安全神話の中に自分もいた。今は原発も事故を起こす前提で、対策を取らなければならない」


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2016年08月10日水曜日


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