宮城のニュース

<土と語り合う日々>理想追い 栗駒山麓へ

仙台での個展を前に、つぼなどの作品を点検する村上さん(右)=1967年1月

◎宮城栗原・大久保窯の50年(3)出発

 リュックサックを背負い、東北各地を訪ね歩いた。キノコが多く生える山、亜炭が採れる土地には作陶に適した粘土があるとされる。土を分けてもらい、研究機関に分析を依頼する。1960年代前半、20代の村上世一さん(79)は窯を開く場所を探していた。

<本格的な登り窯>
 「二戸市で生まれ、会津で修業したのだから東北で窯を開きたかった」と村上さん。栗原市など栗駒山麓の粘土には、陶土に適したカオリン鉱物が多く含まれていることが分かった。山麓に位置する栗原市金成でわらじを脱ぐ決意をした。
 開窯したのは1966年。ビートルズが初来日し、日本の人口は1億人を突破、ウルトラマンのテレビ放映が始まった年だ。高度経済成長期に、村上さんは県内で戦後初めて本格的な登り窯を構えた。
 旧金成町の教育長を務めていた菅原健さんが村上さんの熱意に共鳴し、所有する山林を譲ってくれた。地元陶芸愛好家、ライオンズクラブメンバーらが若い陶芸家を支援した。
 最初の2年間は電気さえ引けなかったが、貧乏には慣れていた。父を小学2年のとき病気で亡くしたため、学業より家業の木炭販売の手伝いが忙しかった。小学校時代、弁当に大根の葉が入っていればいい方だった。
 中学時代は青森県三戸町の親戚宅で世話になった。厳冬のある日、訪ねてきた物乞いが差し出した赤い丼が記憶に残る。「あのときの丼が陶芸に導いてくれたのかも」と振り返る。
 木炭を卸業者に届けるため、東京に出向いた17歳のとき、柿右衛門に関する本を読んで陶芸に興味を持った。配達先の日本民芸館で優れた陶器や木工品を見せてもらい、「用の美」を知った。

<刀鍛えるように>
 ろくろの前に腰を据えると、村上さんの表情は引き締まる。両手で押しつぶさんばかりに粘土に力を加え、含まれる空気を抜きながらろくろを回す。空気が入ると焼いたときに割れてしまう。粘土は数分で皿や花瓶に姿を変える。
 「圧力をかけると、土は伸びる。日本刀をたたき、鍛えながら造るのと同じように、土も鍛えて伸ばせば力強い作品になる」。修業時代に体に染み込ませた技だ。
 築窯後、初めて火を入れたのは10月だった。間もなく丸50年。こんなに長く作陶を続けられるとは、想像もしていなかったという。


関連ページ: 宮城 社会

2016年08月13日土曜日


先頭に戻る