宮城のニュース

<3.11と今>傾聴の場 生きがいに

近況を語る同郷の被災者に、温かいまなざしを向ける高橋さん=6日、仙台市の青葉区中央市民センター
30年近く前、北陸地方を旅行した時のすみ子さん(右)。左は震災前に亡くなった夫の憲一さん

◎震災5年5カ月/6度目のお盆(2)高橋明さん=仙台市青葉区

 「お墓の草取りに行ったら、暑くてね」「家から少し、仙台七夕の花火が見えて」
 仙台市の青葉区中央市民センターで6日に開かれた「鳴瀬サロン」。東日本大震災後、東松島市の旧鳴瀬町から仙台圏に移住した被災者が集う。事務局の高橋明さん(63)=仙台市青葉区=が、一人一人の近況に、じっくりと耳を傾ける。
 「同じ立場同士、話すことで癒やされる。私自身がそうでしたから」。東松島市野蒜地区にあった自宅が流され、母すみ子さん=当時(87)=と生後8日だった孫の女の子が犠牲になった。
 あの日、何もできなかった自分。少しでもできることを、と始めたサロンは、いつしか生きがいになった。「震災の後、ぼろ雑巾のようになっていた自分がここまで来た。皆さんのおかげです」

 子どものころから病気がちで、30代以降はアルコール依存症に苦しんだ。震災当日は、検査のため塩釜市の病院にいて難を逃れた。
 翌日、妻、次女と再会した。出産後で里帰りしていた長女は津波にのまれたが何とか助かった。長女と一緒だった孫は息を引き取った。母は見つからない。近所の顔なじみ20人以上が、犠牲になっていた。
 惨状の中、妻は近くの寺にできた避難所で運営役として奔走した。体調がすぐれない自分は、ほとんど動けない。心身共に憔悴(しょうすい)し、宮城県大郷町や仙台市の親族宅に身を寄せた。何を見ても、色がない。感情が止まった状態が続いた。
 それから1カ月が過ぎた4月半ば、以前から参加していた仙台市の依存症患者の自助グループの会合で、ありのままを吐露した。
 仲間はいつものように、ただ聞いてくれた。グループに参加し、死を考えるほどだった依存症は回復してきた。「話すことで救われる」。その感覚を思い出した。
 仙台市内に住まいを見つけ、2011年9月、家族で移った。鳴瀬サロンを始めたのは翌12年夏。月1回の集いでは、親族を亡くした悲しみや不安を涙ながらに語る人もいた。自らの経験から、「自分のペースで話したいことを話してもらう」ことを大切にした。
 皆で思いを共有することで、心身が少しずつ回復した。別の交流会の代表にもなり、仙台圏での被災者の集いの場づくりを広く担うようになった。参加者の笑顔が何よりうれしかった。

 震災から3年半が過ぎたころから、徐々に振り返ることができるようになった。一度だけお風呂に入れてあげた孫、姿を変えた古里。母には病気で苦労を掛けた。米寿のお祝いに、親族で会食するのを楽しみにしていたはずだった。
 大雨や洪水の映像を見るのは今もつらい。サロンでは、3年以上たって、やっと涙が出たという人もいる。簡単に区切りはつかない。だからこそ、息長く交流会を続けたい。
 6度目のお盆、墓前に思う。「元気でやっています。病気や震災から生き残った者として、できることに力を尽くしたい」
(菊池春子)


2016年08月15日月曜日


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