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<戦後71年>戦死者 もういらない

「最後の近衛兵」の感想が書かれた手紙を読みながら、須藤さん(右)と話す佐藤さん
1944年の徴兵検査時の佐藤さん。まだ19歳だった

 71年前、皇居の中で敗戦を迎えた人たちがいる。昭和天皇や皇居を守る任務に就いた近衛兵だ。その一人で、宮城県栗原市の佐藤吉勝さん(91)は「死への恐れは全くなかった」と戦時下独特の雰囲気を回想する。15日は終戦記念日。「もう戦死者を出してはいけない」との思いを強くする。

◎皇居で迎えた敗戦/元近衛兵 佐藤吉勝さん=宮城県栗原市

 佐藤さんは1944年、青年学校在学中の19歳の時に徴兵検査を受け、甲種合格した。徴兵は20歳以上が原則だが、戦局が厳しくなり、この年は19歳に引き下げられた。
 成績優秀で丈夫な者が選ばれた近衛兵として45年4月に上京。空襲で焼け野原になった風景に衝撃を受けた。「日本軍は快進撃を続けているはずだが…」。様子が違うと感じた。
 主な任務は皇居の門の警備だった。空襲は日増しに激しくなり、5月25日、宮殿に焼夷(しょうい)弾が落とされた。宮中は火の海となり、「天皇陛下に申し訳ない」と思った。一緒に消火に当たった近衛兵13人が戦死した。
 その後、皇居内にあった防空壕(ごう)「御文庫(ごぶんこ)」をコンクリートで補強する作業を命じられた。空襲警報があると、敵機に見つかってはいけないので作業を中止し、じっとした。それでもセメントが固まらないよう、トロッコだけは小刻みに揺らし続けた。
 敵に感心したことがある。米国は爆撃機が撃墜されてもパラシュートで降下したパイロットを東京湾で救い出していた。「人命を大事にする米国には勝てない」と痛感した。その一方で、「矛盾しているが、なぜか負けるとも考えなかった。敗戦は考えられない雰囲気だった」という。
 8月13、14の両日は48時間の警備をこなした。任務終了の時間が来ても帰ることは許されなかった。終戦を望まない兵士の一派が玉音放送の原盤をNHKに届く前に奪おうと画策したため、非常事態に備えて待機させられていたと後で知った。
 15日、整列して玉音放送を聴いた。無念の涙が止めどなく頬を伝った。皇居の外で、市民が「万歳」と叫んでいた。戦争終結を望んでいた一般市民と意識が懸け離れていたと感じた。
 昨年、次女で元小学校教諭の須藤勝子さん(62)=登米市=に近衛兵のことを初めて語った。戦後70年の節目。生きているうちに後世に戦時下の皇居内のことを伝えたいと思ったからだ。
 須藤さんは父と同期の平塚基一さん(90)=石巻市=にも取材し今年、「最後の近衛兵」を自費出版。本は完売し、栗原、登米両市の図書館に置いてある。
 自身の体験について長い間、口を閉ざしてきた佐藤さん。須藤さんは「兵隊として戦争に加担したという気持ちなど複雑な感情があるのだろう」と推し量る。


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2016年08月15日月曜日


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