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<3.11と今>命の重み 伝えていく

いわき市の中学校で講演する志賀さん
俊隆さん(手前右から3人目)の喜寿祝いで宮城県松島町を訪れた志賀さん(同2人目)。勝子さん(手前左から3人目)、より子さん(同2人目)らと記念撮影した=2008年7月

◎震災5年5カ月/6度目のお盆(3)志賀としえさん=いわき市

 子どもたちに語り掛ける。
 「当たり前の日常が当たり前でなくなる日は突然やって来る。家族の大切さ、命の重さをかみしめながら生きてほしい」
 元白血病患者の志賀としえさん(45)は、東日本大震災と福島第1原発事故を経て、自らの体験を伝えていくことが使命だと、より強く思うようになった。
 宮城県気仙沼市生まれ。仙台市で働いていた22歳のとき、急性骨髄性白血病を発症した。生死の淵をさまよい、骨髄移植で命をつないだ。
 その後、骨髄バンク登録の推進活動を通じて知り合った正弘さん(50)と結婚。いわき市に移った。義母(79)と長男(9)の4人で暮らす。

 あの日。いわき市の小名浜港近くの自宅は津波で床上浸水し、市内の夫の会社に身を寄せた。混乱のさなか、気仙沼の兄と連絡がつき、父の菊田俊〓さん=当時(78)=、母勝子さん=同(73)=、義姉より子さん=同(52)=が行方不明だと知った。近所の人と避難した実家近くの高台で、津波にのまれたらしい。
 福島第1原発が危機的状況に陥ったとの情報が入る。1号機、3号機が相次いで水素爆発。とどまるべきか、逃げるべきか。行政からの情報は何もない。両親らの安否を気遣いつつ、知り合いを頼って埼玉県に避難した。気仙沼に駆け付けたかったが、ガソリンが手に入らなかった。
 ワカメやカキの養殖で生計を立て、きょうだい3人を育ててくれた両親。決して裕福ではなかったけれど、明るい雰囲気に引き寄せられるように、家には多くの人がやって来た。宴会になると、父は民謡を歌って盛り上げた。
 自分が高校生のときにお嫁さんに来た義姉。多感な年頃だった。つらく当たっても、嫌な顔もせず接してくれた。人に気を使わせない嫁のかがみのような人。自分が同じ嫁の立場になって余計そう思った。
 気仙沼に戻れたのは、4月上旬。父の火葬には間に合わなかった。変わり果てた姿の母親と対面した。もしかしたら、母だけでも生きているかも…。かすかな希望は打ち砕かれた。
 24歳で受けた骨髄移植手術は白血球の型が完全には一致せず、術後も激痛との闘いだった。「頑張れ…頑張れ」。苦しみにもだえる自分の手を握りしめ、励まし続けてくれた母。
 大声を上げて泣いた。あれほど支えになってくれたのに、親孝行をしてあげられなかった−。

 「元患者」の肩書に「遺族」の立場が加わった震災から5年5カ月が過ぎた。福島県骨髄バンク推進連絡協議会の運営委員として、講演活動を続ける。
 地元の学校などで話す機会が多い。震災を体験していなかったり、記憶に残っていなかったりする子どもたちが増え、足元でも進む風化を肌で感じる。
 講演で自分が話すのを、両親は何より喜んでくれた。「感謝の気持ちを伝えることができずに別れた家族のためにも、命の重みを伝えていきたい」
(大友庸一)

(注)〓は隆の旧字体


2016年08月16日火曜日


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